理想と現実
グレイとサラが部屋へ戻った頃、夜はすっかり深まっていた。
バトラスは寝台で目を閉じたまま、規則正しい呼吸を続けている。
グレイは音を立てないよう自分の寝台へ腰を下ろした。だが、腹部に走った痛みに、僅かに顔をしかめる。
サラが血の滲んだ包帯へ視線を落とした。
「治癒術師を呼びます」
「今から?」
「傷が開いています」
「夜中に叩き起こしたら、今度こそ薬じゃなくて毒を飲まされそうだよ」
「自業自得です」
「明日の朝でいいって」
「よくありません」
サラは譲らない。
グレイは困ったように頭を掻き、眠るバトラスを一瞥した。
「じゃあ、静かに呼んできて。お兄さんに知られたら説教される」
「当然です」
「どっちの味方なの、お嬢さん」
「あなたを生かす側です」
「それが一番怖いんだよなぁ」
サラは返事をせず、部屋を出ていった。
その背中を見送りながら、グレイは右肩を回復させた彼女の姿に、小さく息を吐いた。
「……よかった」
誰にも届かないほど、小さな声だった。
それから四日後。
バトラスとグレイは、ようやく自分の足で宿の階段を下りられるまでに回復していた。
もっとも、回復したというより、どうにか歩けるようになったという方が正しい。
バトラスは胸と脇腹を包帯で固定され、黒い外套を羽織っている。背負うには傷へ響くため、ケルベロスは布で巻き、鎖ごと肩へ担いでいた。
グレイも普段の軽やかさはなく、壁や手すりをさりげなく利用しながら歩いている。
「杖を借りればよかったのではありませんか」
後ろを歩くサラが言った。
「二十代の美男子が杖なんてついたら、魅力が半減するでしょ」
「今の歩き方の方が不格好です」
「お嬢さん、最近ますます遠慮がなくなったね」
「誰かの影響です」
「誰だろうね。困った奴もいたもんだ」
「お前だろう」
先を歩くバトラスが言う。
「お兄さんまで即答しなくてもいいじゃない」
三人が宿を出ると、昼前の街道には荷馬車や旅人が行き交っていた。
数日前、血塗れで運び込まれた三人を覚えているのだろう。道行く者の何人かが、遠巻きに視線を向けている。
「ずいぶん見られてるね」
「目立つ格好だからではありませんか」
サラがバトラスの担ぐ重剣を見る。
「俺じゃなくて、お兄さんのせいか」
「お前の銀髪も十分目立つ」
「顔もね」
「そこは聞いていません」
軽口を交わしながら、三人は冒険者ギルドへ向かった。
宿場町のギルドは王都のものほど大きくはない。
石造りの一階建てで、正面には剣と羽根を組み合わせた看板が掲げられている。
扉を開けた瞬間、中にいた冒険者たちの視線が集まった。
酒と汗と獣脂の匂い。
壁一面に貼り出された依頼書。
昼間から酒を飲んでいた男たちの話し声が、三人の姿を認めると徐々に小さくなっていく。
「歓迎されてるみたいだね」
「警戒されているだけだ」
「似たようなものでしょ」
三人は受付へ進んだ。
若い受付係が顔を上げる。
「ご依頼の受領でしょうか」
「報告に来た」
バトラスが言った。
「修道院の調査依頼だ」
受付係の表情が変わった。
「修道院……?」
机の下から帳簿を取り出し、急いで頁をめくる。
「確か、修道院周辺で巡礼者と行商人が相次いで行方不明になった件ですね。ですが、この依頼を受けた方々は――」
受付係が三人の名前を確認する。
その手が止まった。
「帰還予定日を過ぎています。捜索依頼を出す準備が進められていました」
「親切だね」
グレイが笑う。
「捜索隊が行く前に、俺たちの死体が歩いて帰ってきてよかった」
「一人は実際に死体です」
サラが淡々と付け加えた。
受付係はどう反応すればいいのか分からず、視線を彷徨わせた。
「それで、調査結果をお聞かせ願えますか」
バトラスはグレイを見る。
グレイは手首に結びつけていた革袋を外し、受付台へ置いた。
「その前に、これを鑑定してほしい」
受付係が袋を開く。
幾重にも巻かれた布を解いた瞬間、中から暗赤色の破片が現れた。
砕けてなお、脈動するような魔力を放っている。
受付係の顔から血の気が引いた。
「これは……魔核?」
「槍の侯爵サブナックのものだ」
バトラスの言葉に、周囲の空気が凍りついた。
椅子が床を擦る音が響く。
杯を持ったまま固まる者。
冗談だろうと笑いかけ、三人の傷を見て口を閉じる者。
受付係は魔核の破片とバトラスを交互に見た。
「槍の侯爵……サブナック?」
「そう言った」
「少々、お待ちください」
彼女は立ち上がると、奥の扉へ駆け込んだ。
グレイが受付台へ肘をつこうとして、腹部の傷に響いたのか途中でやめる。
「ここから『偽物だ』って言われる展開もあると思う?」
「その場合はどうする」
「修道院へ戻って、もう一度本人から署名をもらってくる」
「消滅しています」
「じゃあ無理だね」
間もなく、奥から屈強な中年の男が現れた。
ギルドマスターだろう。
男は挨拶もせず、魔核の破片を手に取った。片眼鏡のような鑑定器を装着し、魔力を流し込む。
破片の内側で、赤黒い光が瞬いた。
ギルドマスターの表情が険しくなる。
「どこで、これを手に入れた」
「北の修道院だ」
「経緯を最初から聞かせろ」
三人はサブナックとの戦いについて報告した。
結界に阻まれていた悪魔。
姿の見えない槍。
霜によって軌道を暴き、影で動きを封じ、最後はケルベロスで魔核を砕いたこと。
ただし、サブナックが口にした上位四侯の情報については伏せた。
アスモデウスとレラジェに関する話は、ギルドへ明かすつもりはなかった。
報告を聞き終えるまで、ギルドマスターは一度も口を挟まなかった。
やがて魔核の破片を布の上へ戻す。
「鑑定結果を告げる」
ギルド内の全員が、その声へ耳を傾けていた。
「この破片から検出された魔力は、百年以上前に記録された槍の侯爵サブナックのものと一致する」
ざわめきが広がる。
「したがって、サブナックの討伐を正式に認定する」
誰かが息を呑む音がした。
次の瞬間、ギルド内が大きく揺れた。
「七侯爵を倒しただと……?」
「三人だけで?」
「あの傷、本当に戦ってきたのか」
グレイは周囲を見回す。
「もう少し疑ってもらってもいいんだけどな。注目されるの苦手なんだよね」
「よく言います」
「本当だよ。俺は影に生きる男だから」
「自分から目立つ発言ばかりしています」
「影も光がないと生まれないでしょ?」
「意味が分かりません」
ギルドマスターは咳払いし、騒ぎを鎮めた。
「本来の依頼は修道院周辺の異変調査だった。依頼達成分に加え、七侯爵討伐の特別報奨を支払う」
受付係が奥から、ずしりと重い革袋を運んでくる。
受付台へ置かれた瞬間、硬貨同士がぶつかる音が響いた。
グレイの目が輝く。
「お兄さん」
「何だ」
「俺、今ならもう一柱くらい倒せる気がする」
「寝言は寝て言え」
「報酬って偉大だね」
「先ほど階段を下りるだけで息を切らしていました」
「お嬢さん、それは秘密にしておこう」
「皆さんに聞こえています」
周囲から小さな笑いが漏れる。
ギルドマスターは表情を崩さなかった。
「浮かれるな」
低い声で言う。
「七侯爵を一柱倒したことで、お前たちは他の侯爵からも認識される可能性がある」
バトラスの表情が引き締まる。
「分かっている」
「ならいい。今は傷を治せ。次も同じように生還できるとは限らん」
「まったく同感だね」
グレイが革袋を持ち上げようとする。
しかし傷に響いたのか、すぐに手を離した。
「……お兄さん、お願い」
「先ほど、もう一柱倒せると言ったな」
「七侯爵は倒せても、金貨には勝てないみたい」
バトラスが革袋を持ち上げる。
「情けないな」
「賢いと言ってほしいね」
三人は受付を離れた。
冒険者たちが道を開ける。
畏敬。
警戒。
疑念。
さまざまな感情が入り混じった視線が、三人へ注がれていた。
扉を出る直前、グレイが立ち止まる。
「そうだ」
彼は受付係へ振り返った。
「一つ聞きたいんだけど」
「何でしょうか」
「腕の立つ治癒術師を知らない?」
受付係が目を瞬かせる。
「治療でしたら、町の治癒院に――」
「そうじゃなくて、旅に同行できる専属の治癒術師」
グレイは人差し指を立てる。
「できれば金髪で、エルフで、美人だと助かる」
サラが無言で彼の背中を押した。
「痛い痛い。まだ怪我人だよ?」
「帰ります」
「条件くらい伝えてもいいでしょ」
「必要ありません」
「大事なことなのに」
バトラスは二人を置いて扉を開いた。
「行くぞ」
「待ってよ、お兄さん。報酬を持ってる人が先に行かないで」
三人がギルドを出る。
その背後で、サブナック討伐の噂が広がり始めていた。
宿場町に辿り着いてから七日目。
彼らの名が七侯爵を討った者として知られたのは、この日が初めてだった。
ギルドを出た三人は、そのまま宿へ戻った。
報酬の入った革袋は、バトラスが片手に提げている。
グレイは二度ほど「半分持とうか」と申し出たが、宿までの短い道のりで三度も脇腹を押さえたため、誰にも相手にされなかった。
「信用がないなぁ」
「お前の体力を信用していないだけだ」
「つまり、人間性は信用されてる?」
「そのような話はしていません」
サラが淡々と答える。
「お嬢さん、少しくらい迷ってくれてもよくない?」
「迷う理由がありません」
「最近、返しが鋭くなったね」
「長く一緒にいますので」
「俺に似たのかな」
「それは不本意です」
グレイは胸元を押さえた。
「傷口より痛いなぁ」
「そこは胸です。傷は脇腹でしょう」
「心の傷だよ」
「治癒術師でも治せませんね」
「見捨てるの早くない?」
バトラスは二人の会話を聞き流し、宿の扉を押し開けた。
一階の酒場には、商人や旅人、依頼帰りの冒険者たちが集まっていた。
三人が足を踏み入れた途端、賑やかだった声が僅かに小さくなる。
ギルドを出てから、まだ半刻も経っていない。
それでも、槍の侯爵サブナックが討たれたという噂は、すでに宿場町を駆け巡っていた。
「……あれが?」
「ギルドに魔核を持ち込んだ三人だ」
ひそめた声が、あちこちから聞こえてくる。
バトラスは気に留めず、酒場の奥へ進んだ。
だが、壁際で酒を飲んでいた年配の冒険者が、その姿を見て目を細める。
「隻眼の大男……あの重剣」
隣にいた男が、布に包まれたケルベロスへ目を向ける。
巻かれた布の隙間から、鍔に刻まれた三頭の獣の装飾が覗いていた。
「三つ首の刻印。それに柄から伸びた鎖……」
男の顔色が変わった。
「まさか、重剣のケルベロスか」
その名が落ちた瞬間、周囲の視線がバトラスへ集まった。
続いて、別の卓にいた冒険者がグレイを見る。
長い銀髪。
笑みを浮かべた軽薄そうな顔。
そして、左目の下に刻まれた十字架の入れ墨。
「銀髪に、あの十字の入れ墨……」
男は椅子から僅かに腰を浮かせた。
「アサシンギルドの…」
「影縫いのグレイ」
今度は、グレイへ視線が集中する。
グレイは居心地悪そうに片手を上げた。
「どうも。本人の許可なく異名を広めるのは、追加料金がかかるんだけど」
誰も笑わない。
「冗談が通じないなぁ」
「お前の名は、笑って聞けるものではないのだろう」
バトラスが言う。
「昔の話だよ」
グレイは軽く肩をすくめたが、その表情から笑みが一瞬だけ薄れた。
サラだけが、その変化に気づいていた。
「席へ行きましょう」
「そうだね。立ってると、伝説になる前に倒れそうだ」
「すでに息が上がっています」
「雰囲気を壊さないでよ、お嬢さん」
三人は奥の卓へ腰を下ろした。
バトラスが報酬の革袋を足元へ置くと、金貨の重みで床板が低く軋んだ。
グレイが満足そうにその音を聞く。
「いい音だね」
「金の音が好きなのか」
「命懸けの苦労が報われる音は好きだよ」
「酒代に使うつもりではありませんか」
「治療費と宿代を引いて、余った分だけ」
「余らせる気がないだろう」
「信用ないなぁ」
給仕が、黒パンと肉の煮込み、それに水差しを卓へ運んできた。
グレイは自分の前に置かれた水を見て、眉を下げる。
「俺の杯だけ中身を入れ忘れてない?」
「禁酒です」
サラが告げる。
「水は入っています」
「お嬢さん、時々すごく残酷だよね」
「傷を治すためです」
「愛情の形が厳しいなぁ」
「あなたが言うことを聞かないからです」
「じゃあ、言うことを聞いたら優しくしてくれる?」
「検討します」
「可能性はあるんだ」
グレイが笑う。
サラは何も答えず、彼の前へ水杯を押し出した。
グレイは素直にそれを受け取った。
そのとき、宿の扉が開いた。
店内の空気が、静かに変わる。
入ってきたのは、五人組のエルフだった。
いずれも背が高く、細身ながら無駄なく鍛えられている。武具や外套には繊細な銀細工が施され、埃にまみれた宿場町の中では、彼らだけが別の世界から現れたように見えた。
先頭の男は、店内の者たちへ視線すら向けない。
その後ろから、一人の女が姿を現す。
腰まで流れる金色の髪。
透き通るような白い肌。
整った顔立ちと、切れ長の青緑色の瞳。
白と金の法衣の胸元には、治癒術師を示す銀杖の紋章が刻まれている。
法衣の上からでも分かるほど、豊かな胸の持ち主だった。
グレイは女を一瞥した。
それから、静かに水杯を置く。
「……いた」
サラが横目を向ける。
「何がですか」
「金髪で、美人で、エルフの治癒術師」
「条件どおりですね」
「しかも、かなり立派だ」
「治癒術師としての技量が、ですか」
「もちろん」
「まだ何も見ていません」
「雰囲気で分かることもあるんだよ」
サラは女の胸元にある銀杖の紋章を見たあと、グレイへ視線を戻す。
「紋章以外を見ていませんでしたか」
「お嬢さんは俺を何だと思ってるの?」
「グレイです」
「答えになってるようで、すごく傷つくね」
バトラスが水を飲みながら尋ねる。
「声をかけないのか」
「まさか」
グレイは即答した。
「俺にはお嬢さんがいるからね」
サラの表情は変わらない。
「では、なぜ先ほどから見ているのですか」
「理想像が実在するか確かめてるだけ」
「実在していましたね」
「外見だけならね」
「まだ性格は分かりません」
「そこが一番不安なんだよなぁ」
エルフたちは酒場の中央へ進んだ。
だが、金髪の治癒術師が、空いた卓の前で足を止める。
その隣では、ヒュム種の商人たちが食事をしていた。
女は彼らを一瞥し、露骨に眉をひそめた。
「ここを空けてくださる?」
商人の一人が顔を上げる。
「……俺たちに言っているのか?」
「ほかに誰がいるの?」
女は静かに言った。
「ヒュム種と肩を並べて食事をする趣味はないの」
酒場の話し声が途絶える。
「俺たちも金を払って席を――」
商人が反論しかけたところで、先頭のエルフの男が口を開いた。
「金銭の問題ではない」
男は商人を見ることすらしない。
「森の民とヒュム種が、同じ場所で食事をすること自体が不自然なのだ」
「何だと」
「分を弁えろと言っている」
ほかのエルフたちも止めようとはしなかった。
むしろ、当然の要求だという顔で商人たちを見下ろしている。
商人たちは怒りを押し殺しながら料理を持ち、酒場の隅にある狭い卓へ移っていった。
エルフたちは礼を言うこともなく、空いた席へ腰を下ろす。
グレイはしばらく無言でその様子を見ていた。
「……お嬢さん」
「何でしょう」
「性格を確認できたよ」
「早かったですね」
「夢って、案外簡単に壊れるんだね」
「傷が浅くて何よりです」
「慰め方が冷たいなぁ」
「私がいますので、問題ないでしょう」
グレイは目を瞬かせた。
それから、僅かに口元を緩める。
「そうだね」
短く答え、水杯を口へ運ぶ。
その声には、先ほどまでの冗談とは違う穏やかさがあった。
やがて、金髪の女が給仕を呼び止める。
「この杯を替えてちょうだい」
「汚れがございましたか?」
「先ほどまでヒュム種が使っていたのでしょう?」
「洗浄はしております」
「そういう問題ではないわ」
女は柔らかく微笑んだ。
「森の外では、随分と不潔な習慣が許されているのね」
グレイが水杯を置く。
「理想どころか、最低記録を更新してるね」
「静かにしてください」
「分かってるよ。怪我人だからね」
そのとき、女の視線が三人へ向いた。
最初に目を留めたのは、バトラスだった。
隻眼。
巨大な重剣。
布の隙間から覗く、三頭の獣の装飾。
女の目が僅かに細くなる。
「……重剣のケルベロス」
先頭のエルフの男も、バトラスへ視線を向けた。
「では、あの銀髪は」
グレイの左目の下に刻まれた、十字架の入れ墨。
「影縫いのグレイか」
周囲の冒険者たちが再びざわめく。
女は二人を眺めたが、その顔に敬意は浮かばなかった。
「ヒュム種にしては、随分と大仰な異名を持っているのね」
「そっちから名乗ってもらえると楽で助かるよ」
グレイは笑った。
「俺たち、自己紹介するだけでも傷に響くからさ」
女はグレイの言葉を無視し、サラを見る。
青い髪。
生者にはない静かな気配。
そして、身体の奥に漂う死の魔力。
女の表情が、露骨な嫌悪へ変わった。
「……不浄なものを連れているのね」
グレイの笑みが止まる。
サラは動じない。
「死霊でしょう?」
女は鼻を覆うように手を添えた。
「ヒュム種は、命だけでなく死者まで冒涜するの?」
グレイはゆっくりと椅子から立ち上がった。
脇腹に痛みが走ったのか、身体が僅かに揺れる。
サラが彼の腕へ手を添えた。
「グレイ」
「大丈夫」
声は穏やかだった。
だが、目は笑っていない。
グレイは金髪の女を見た。
「訂正してくれる?」
「何を?」
「不浄なもの、ってところ」
女は嘲るように目を細める。
「死霊は死霊でしょう」
「そうだね」
グレイは否定しなかった。
「でも、お嬢さんには名前がある」
サラの肩へ、そっと手を置く。
「サラだ」
「名をつければ、死者が生者になるとでも?」
「ならないよ」
グレイの声から、完全に軽さが消えた。
「死んでいることも、俺が死霊にしたことも事実だ」
女を真っ直ぐに見据える。
「それでも、サラは俺の恋人だ」
酒場が静まり返った。
サラがグレイを見る。
彼は女から目を逸らさない。
「俺の恋人を侮辱するなら、金髪でも、エルフでも、治癒術師でも関係ない」
「ヒュム風情が、森の民を脅すつもり?」
「まさか」
グレイの口元に、薄い笑みが戻る。
「今の俺は、階段を下りるだけで息切れするほど弱いからね」
脇腹を軽く押さえる。
「ただ、性格が腐ってるって教えてあげただけ」
エルフの男たちが、一斉に立ち上がる。
その瞬間、重い金属音が響いた。
バトラスが、床へ置いていたケルベロスの柄を掴んでいた。
まだ立ち上がってはいない。
だが、隻眼から放たれる殺気に、酒場全体の空気が沈む。
「やめておけ」
低い声だった。
「こちらは傷病人だ。傷病人に五人がかりで剣を向けたと噂されたいなら、好きにしろ」
先頭のエルフの男がバトラスを睨む。
ケルベロスに刻まれた三頭の装飾。
サブナックを討ったという噂。
そして、重剣を握る男から放たれる圧力。
しばらくして、男は鼻を鳴らした。
「ヒュム種の戯言に付き合う必要はない」
「その判断は賢いよ」
グレイもゆっくりと椅子へ戻る。
「俺も、夢の残骸と話し続ける趣味はないからね」
「グレイ」
サラが彼の脇腹を支えながら呼ぶ。
「何?」
「傷が開いています」
「……それは先に言ってほしかったな」
「最初に止めました」
「そうだったね」
グレイは苦笑し、椅子へ深く腰掛けた。
サラが彼の包帯を確認する。
グレイはその横顔を眺め、誰にも聞こえないほど小さな声で言った。
「ごめん」
「何がですか」
「恋人だって皆の前で言ったこと」
サラは手を止めない。
「間違っていません」
「それならよかった」
「ですが」
サラは顔を上げる。
「次からは、傷が塞がってから喧嘩を売ってください」
「善処します」
「守る気がありませんね」
「お嬢さんを馬鹿にされたら、難しいかな」
サラは僅かに目を伏せた。
「……馬鹿です」
「知ってる」
バトラスは呆れたように息を吐く。
「治癒術師を探していたのではなかったか」
「探してるよ」
グレイは水杯を手に取った。
エルフたちへ一度だけ目を向ける。
「でも、あれは違う」
「金髪の美女エルフですよ」
サラが言う。
「条件どおりではありませんか」
「一番大事な条件を忘れてた」
「何ですか」
グレイはサラを見て笑った。
「お嬢さんと仲良くできること」
「先ほどまで言っていませんでした」
「今、追加した」
「都合がいいですね」
「恋人だからね」
サラは小さく息を吐いた。
だが、それ以上は否定しなかった。
「他を探すぞ」
バトラスが言う。
「エルフの街まで行く必要もなさそうだ」
「同感」
グレイは水杯を掲げる。
「さようなら、金髪美女エルフの治癒術師」
「出会ってすらいません」
「だから別れも早くて済む」
水杯が虚しく鳴った。
その日。
グレイの理想は、姿を現して僅か数分で崩れ去った。
だが、隣にいる恋人の価値を確かめるために、理想など最初から必要なかった。
第十六話へ続く




