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帰路

 崩れかけた修道院が、少しずつ遠ざかっていく。


 三人の足音に混じり、ケルベロスの鎖が乾いた地面を擦っていた。


 誰も口を開かない。


 バトラスの呼吸は重く、甲冑の隙間から滲んだ血が黒い衣服をさらに濃く染めている。


 グレイも脇腹を押さえ、普段の軽い足取りは見る影もなかった。隣を歩くサラも、裂けた白いローブの下から傷ついた身体を覗かせている。


 それでも三人は歩き続けた。


 あの場所に留まっていれば、今度こそ誰かが力尽きる。


「……それで?」


 しばらくして、グレイが口を開いた。


 声にはいつもの軽さが残っていたが、その息は浅い。


「さっき言ってた昔って、何?」


 バトラスは前を向いたまま答えた。


「俺が騎士団にいた頃の話だ」


 グレイの表情から、わずかに笑みが消えた。


 サラも何も言わず、バトラスへ視線を向ける。


「騎士団に、治癒術師がいた」


 バトラスの歩みが僅かに鈍る。


「ミリアムという女だ」


「ミリアム……」


「俺と結婚するはずだった」


 それだけで、グレイはおおよその事情を察したらしい。


 彼はそれ以上、軽々しく問い返さなかった。


 風が三人の間を吹き抜ける。


「七年前、俺たちは古い礼拝堂でアスモデウスと遭遇した」


 バトラスの右手が、ケルベロスの柄を強く握る。


「奴は騎士団を壊滅させた。ミリアムも……他の団員も全員だ」


「……そう」


「俺だけが生き残った」


 グレイは黙って前を向いた。


 サラも何も言わない。


 安い慰めなど、バトラスが求めていないことを二人とも理解していた。


「だから治癒術師って言葉で思い出したんだ」


 グレイの声から、完全に冗談が消えていた。


「忘れたことはない」


 バトラスは短く答えた。


「ただ、口にしていなかっただけだ」


 再び沈黙が落ちる。


 やがてグレイが、小さく息を吐いた。


「なら、なおさら探さないとだね」


 バトラスが横目を向ける。


「治癒術師」


 グレイは腹部の傷を押さえながら、力なく笑った。


「死んだ人は戻らない。でも、生きてる人間まで死なせる必要はないだろ?」


「……そうだな」


「まあ、今は治癒術師より先に、町まで生きて帰ることを考えようか」


 グレイは腰の小袋へ手を当てた。


 中には、布で幾重にも包まれたサブナックの核の破片が入っている。


 崩壊する直前、彼が拾い上げたものだった。


「こいつをギルドに渡すまでが依頼だからね」


「抜け目のない奴だな」


「失くすなよ」


「命より大事に持ってるよ」


「逆だ」


「分かってるって」


 言葉とは裏腹に、グレイの足取りは明らかに危うかった。


 次の一歩を踏み出した瞬間、その身体が大きく傾く。


「グレイ」


 サラが腕を伸ばして支える。


「大丈夫、大丈夫。ちょっと地面が揺れただけ」


「地面は揺れていません」


「じゃあ俺が揺れたのかな」


 サラは答えなかった。


 だが、その身体も決して万全ではない。グレイを支えた腕が僅かに震え、輪郭を形作る魔力が不安定に揺らいでいる。


 バトラスは足を止めた。


 視界が霞む。


 血を流しすぎたのだろう。遠くの森が、まるで水の底に沈んでいるように歪んで見えた。


「お兄さん?」


「問題ない」


「そう言う奴は、だいたい問題あるんだよね」


 バトラスは答えず、再び歩き出そうとする。


 そのときだった。


 遠くから、微かな鈴の音が聞こえた。


 三人が同時に顔を上げる。


 街道の向こうから、数台の荷馬車がこちらへ近づいてきていた。


 先頭の御者が三人の姿に気づき、慌てて手綱を引く。


「止まれ!」


 馬車が大きく揺れ、車輪が土を巻き上げた。


 護衛と思われる男たちが武器へ手をかける。


 血塗れの三人を見れば、警戒するのも当然だった。


「お前たち、何者だ!」


 グレイが片手を上げる。


「安心して。今の俺たちに商隊を襲う元気はないよ」


「どこから来た?」


 男は警戒を解かない。


 グレイは背後を振り返った。


 遠くに、崩壊した修道院の尖塔が僅かに見える。


「北の修道院」


 その言葉に、商隊の者たちがざわめいた。


「あそこは立入禁止になっていたはずだ」


「依頼だったんだ」


「依頼だと?」


 グレイは腰の小袋を軽く叩いた。


「槍の侯爵サブナックの討伐」


 一瞬、風の音さえ消えたように感じられた。


「……何を言っている」


 御者の声が震える。


 サラが静かに告げた。


「サブナックは消滅しました」


 商隊の者たちは言葉を失った。


 グレイはいつものように笑おうとした。


 だが、その表情は途中で崩れた。


「というわけで……悪いんだけど」


 彼の膝が落ちる。


「町まで、乗せてくれない?」


「グレイ!」


 サラが支えようとする。


 だが、彼女の身体も同時に傾いた。


 バトラスが一歩踏み出す。


 その瞬間、右膝から力が抜けた。


 ケルベロスが地面へ落ち、重い音を響かせる。


「おい!」


 商隊の誰かが叫んだ。


 遠ざかる意識の中で、バトラスは御者の声を聞いた。


「荷台を空けろ! 早くしろ!」


 複数の足音が近づいてくる。


 その音を最後に、バトラスの視界は完全な闇に沈んだ。




最初に感じたのは、薬草の匂いだった。


 鼻を刺すような苦みと、乾いた木の香り。


 次に、全身を締めつける鈍い痛みが戻ってくる。


「……っ」


 バトラスは重い瞼を開いた。


 見知らぬ木造の天井が、ぼやけた視界の向こうに浮かんでいる。


 粗く削られた梁。窓から差し込む夕暮れの光。身体には厚く包帯が巻かれ、右肩から胸元にかけて固く固定されていた。


 起き上がろうと腕に力を込める。


 その瞬間、脇腹を抉られたような痛みが走った。


「動くんじゃないよ」


 部屋の奥から、低い声が飛んできた。


 白髪を後ろで束ねた女が、卓上ですり鉢を回している。年は六十を越えているだろう。簡素な白い外套には、治癒術師を示す草花の紋章が縫いつけられていた。


「せっかく塞いだ傷を、自分で開きたいのかい」


「……ここは」


「北街道沿いの宿場町だよ。行商人の一行が、街道で倒れていたあんたたちを拾ってきた」


 途切れていた記憶が、ゆっくりと繋がっていく。


 荷馬車の車輪。


 駆け寄る複数の足音。


 そして、意識が暗闇へ沈む直前に聞こえた御者の声。


「グレイとサラは」


「おはよう、お兄さん」


 すぐ隣から、聞き慣れた声がした。


 バトラスが顔を向ける。


 隣の寝台には、胸から腹部まで包帯で固められたグレイが横たわっていた。


「……起きていたのか」


「昨日からね」


 グレイは枕に頭を預けたまま、口元だけで笑う。


「ずいぶん寝坊したじゃない。おかげで報酬をどう山分けするか、俺に有利な配分まで考え終わったよ」


「お前を置いていけば、分ける必要もないな」


「目覚めて最初の会話がそれ? 重傷者に厳しすぎない?」


「お前も重傷者だろう」


「だからもっと優しくしてほしいんだよ」


 軽口を叩いてはいるが、グレイの顔色は青白い。


 声にも普段ほどの張りはなく、笑うたびに脇腹を押さえていた。


 それでも、いつもの調子を崩さない。


 重苦しい空気を嫌っているのだろう。


「サラは」


「そこ」


 グレイが顎で窓辺を示した。


 サラは椅子に腰掛け、静かに外を眺めていた。


 裂けた白いローブは着替えられていたが、右肩から胸元へかけて残る傷までは隠せていない。


 皮膚には血の代わりに黒ずんだ亀裂が走り、その奥で淡い魔力が不規則に揺れていた。


 バトラスの視線に気づき、サラが振り返る。


「お目覚めになって安心しました」


「お前は大丈夫なのか」


「はい」


「その姿で言われても、説得力がないけどね」


 グレイが横から口を挟む。


 サラは彼を一瞥した。


「あなたに言われたくありません」


「俺は包帯で隠してるから、見た目だけなら健康そうでしょ?」


「まったく見えません」


「即答だね」


「事実です」


「お嬢さんは相変わらず手厳しいなぁ」


 治癒術師の女が、すり鉢を卓上へ置いた。


「そっちの娘も、まだ傷が残ってるじゃないか」


 サラが女を見る。


「必要ありません」


「必要があるかどうかは、こっちが決める」


 女はサラの前へ進み、その肩口へ手をかざした。


 掌に淡い光が集まる。


 温かな光が傷口を包み、静かに脈打った。


 だが――何も起こらなかった。


 黒ずんだ亀裂は塞がらない。


 魔力の揺らぎも収まらず、治癒の光だけがサラの身体の表面を滑り、霧のように散っていく。


 治癒術師が眉をひそめた。


「……おかしいね」


 もう一度、魔力を流す。


 先ほどよりも強い光が部屋を照らした。


 それでも結果は同じだった。


 光はサラの身体へ染み込まず、行き場を失って消えていく。


「治癒術が入っていかない」


「当然です」


 サラは静かに答えた。


「私は死人ですから」


 治癒術師の手が止まる。


「死人?」


「死霊だよ」


 グレイが天井を見上げたまま言った。


「生きた人間の傷を塞ぐ治癒術じゃ、お嬢さんの身体は治せない」


 女はサラとグレイを交互に見る。


「じゃあ、その傷はどうするんだい」


「俺が診る」


 グレイの声から、僅かに軽さが消えた。


「そっちは俺の仕事だから」


 サラがグレイを見る。


「ですが、あなたはまだ動けません」


「もう少ししたらね」


「無理をするつもりですか」


「まさか。俺は自分の身体を大切にする男だよ」


 治癒術師が鼻で笑った。


「その身体で言っても説得力がないね」


「今日はよく言われるなぁ」


「日頃の行いです」


 サラの淡々とした追撃に、グレイは苦笑した。


「お嬢さんまでそっち側につく?」


「私は最初からこちら側です」


「こちらってどちら?」


「あなたを安静にさせる側です」


「敵陣だったか」


 グレイは諦めたように枕へ沈み込んだ。


 バトラスは壁際へ目を向ける。


 ケルベロスが、鞘にも納められず立てかけられていた。


 刃には乾いた血と土がこびりつき、柄から伸びる鎖も幾つかの箇所で歪んでいる。


「サブナックの核は」


「そこは心配しなくていいよ」


 グレイが包帯の隙間から右手を出した。


 手首には細い紐が巻きつけられ、その先に小さな革袋が結ばれている。


「意識を失ってる間も、それを身につけていたのか」


「命より大事に持ってるって言ったでしょ」


「だから逆だ」


「大丈夫。今回は命も一緒に持ち帰った」


 グレイは革袋を軽く持ち上げる。


 中で、硬質な破片が触れ合う音がした。


 槍の侯爵サブナックの魔核。


 あの悪魔を討ち取った、唯一の証明。


「ギルドには報告したのか」


「まだ」


「なぜだ」


「俺が一人で行ったら、報酬を持ち逃げするかもしれないでしょ?」


「するのか」


「しないよ。少なくとも三人が歩けるようになるまでは」


「それ以降はするような言い方だな」


「信用ないなぁ」


「今の言い方で信用されると思う方がおかしいです」


 サラが言った。


「ほら、お嬢さんまで」


「それに」


 サラは革袋へ視線を落とす。


「昨日のグレイは、寝台から降りることもできませんでした」


「できなかったんじゃない。降りないという賢明な判断をしたんだよ」


「床に片膝をついていました」


「途中で判断を変えたの」


「倒れただけです」


「言い方って大事だよ、お嬢さん」


 バトラスは小さく息を吐いた。


 いつもの調子だ。


 それだけで、僅かに肩の力が抜ける。


 治癒術師は卓上から二つの器を持ち上げた。


 中には濁った深緑色の液体が入っている。


「二人とも、これを飲みな」


 グレイが器を覗き込む。


「……ずいぶん凶悪な色してるね」


「痛み止めと、傷の回復を助ける薬だよ」


「その説明を聞いても、見た目の不安が消えないんだけど」


「飲めば不安も感じなくなる」


「それ、眠らせるって意味だよね?」


「口も静かになる」


「目的が変わってない?」


 治癒術師は笑わず、器をグレイの胸元へ押しつけた。


「飲みな」


「治癒術師って、患者を安心させる職業じゃなかった?」


「患者による」


「俺、嫌われてる?」


「気づくのが遅い」


 グレイは助けを求めるようにサラを見る。


 サラは器を受け取り、彼へ差し出した。


「どうぞ」


「お嬢さんは味方じゃなかった?」


「飲んでください」


「はい」


 グレイは観念し、一口飲んだ。


 次の瞬間、その顔から笑みが消える。


「……お兄さん」


「何だ」


「サブナックの方がまだ優しかった」


「黙って飲め」


「このパーティ、病人に厳しくない?」


「喋れるなら問題ないだろう」


「その理屈、さっきの治癒術師と同じだよ」


 グレイは鼻を摘み、残りを一気に流し込んだ。


 続いてバトラスも器を受け取る。


 強烈な苦味が舌に広がり、喉を焼くように落ちていく。


 僅かに顔をしかめると、グレイが見逃さなかった。


「お兄さんも同じ顔するんだね」


「何の話だ」


「いや、ちょっと安心しただけ。化け物みたいに痛みに強いのかと思ってた」


「お前よりは強い」


「比べる相手が悪いよ。俺は繊細だから」


「神経が図太いの間違いではありませんか」


「お嬢さん、今日は本当に容赦ないね」


 治癒術師は空になった器を回収した。


「少なくとも三週間は安静だ」


 グレイの眉が上がる。


「三週間?」


「肋骨の損傷、肩の脱臼、内出血。腹の傷も深い。治癒術で表面は塞げても、骨や内臓まで一晩で元通りにはならないよ」


「三週間も休んだら、身体が鈍りそうだなぁ」


「安心しな」


 治癒術師が冷たく言う。


「その口だけは、三日もあれば元通りだ」


「もう元通りみたいだけどね」


「それが問題なんだよ」


 女は薬と包帯をまとめ、扉へ向かった。


「ギルドへ行くのは、せめて一人で歩けるようになってからにしな。報酬も依頼も逃げやしない」


 扉へ手をかけたところで、彼女は振り返った。


「それと、七侯爵を倒したなんて話は、まだ誰にもしていない」


 グレイの目が僅かに細くなる。


「どうして?」


「魔核をギルドが確認するまでは、酔っ払いの法螺話と変わらないからさ」


「慎重だね」


「この町じゃ、噂は病より早く広がる」


「それも治せる?」


「アンタの口を縫えば、少しは遅くなる」


「なるほど。合理的だ」


 治癒術師は呆れたように首を振り、部屋を出ていった。


 扉が閉じる。


 部屋には夕暮れの静けさが戻った。


 グレイは手首に結ばれた革袋を見下ろす。


「これで報酬が銀貨三枚とかだったら、俺は泣くよ」


「修道院の異変を調べる依頼だったはずだ」


 バトラスが言う。


「依頼の範囲を大幅に越えてるんだから、追加報酬は期待してもいいでしょ」


「七侯爵の討伐を、追加作業みたいに言うな」


「実際、頼まれてない仕事までやったんだからさ」


「逃げることもできた」


「お兄さんが逃げないから、付き合ったんだよ」


 グレイは軽く笑った。


「それに、俺にもレラジェの手掛かりが必要だった」


 その名が出た瞬間、僅かに空気が変わる。


 サブナックが最後に残した言葉。


 アスモデウスとレラジェは、上位四侯。


 サブナック以上の敵が、二人の行く先に待っている。


 バトラスは包帯に覆われた自分の身体へ目を落とした。


 今回、三人は生き残った。


 だが、次も同じとは限らない。


「治癒術師……」


 無意識に漏れた言葉に、グレイが横目を向ける。


「ようやく本気で考える気になった?」


「必要なのは認める」


「よし」


 グレイは満足げに頷いた。


「怪我が治ったら探そう。専属の治癒術師」


「心当たりはあるのか」


「ない」


「胸を張って言うことではないな」


「探す前から見つかってたら、旅にならないでしょ」


「探す条件はあるのですか」


 サラが尋ねる。


 グレイの口元が僅かに上がった。


「もちろん。腕がよくて、旅ができて、それから――」


「続きを言う必要はありません」


「まだ何も言ってないよ?」


「金髪のエルフで、容姿が整った女性がいいのでしょう」


 グレイが目を見開く。


「お嬢さん、俺の心読めるようになった?」


「何度も聞かされましたので」


「好みを覚えてくれてるなんて嬉しいなぁ」


「軽蔑しています」


「言葉が強いね」


 バトラスは呆れたように目を閉じた。


「治癒術師なら何でもいい」


「さっきの婆さんはどうだ?」


「論外!趣味が悪すぎる!」


「何でもいいとかはダメだよ、お兄さん」


「腕が確かなら構わん」


「夢がないなぁ」


「お前にはありすぎる」


「いいじゃない。絶望的な旅なんだから、希望くらい持っても」


 グレイは天井を見上げ、薄く笑った。


 だが、その笑みは長く続かなかった。


 薬が効き始めたのか、瞼が少しずつ重く落ちていく。


「……とりあえず」


 グレイが小さく欠伸をする。


「ギルドは、歩けるようになってからだね」


「ああ」


「報酬もらったら、三週間くらい働かなくてもいいかな」


「三週間は働けないだけです」


 サラが訂正する。


「言い方を変えるだけで、休暇になるんだよ」


「なりません」


「お嬢さんは真面目だなぁ」


 グレイは枕へ深く沈み込んだ。


 やがて規則正しい寝息が聞こえ始める。


 サラは眠った彼をしばらく見つめていた。


 右肩に残った傷から、淡い魔力が小さく揺れる。


 バトラスはそれに気づいたが、何も尋ねなかった。


 グレイが自分で診ると言った。


 ならば、それ以上踏み込むことではない。


 窓の外では、夕日が宿場町の屋根を赤く染めていた。


 サブナックとの戦いは終わった。


 だが、傷はまだ残っている。


 身体にも。


 そして、それぞれの内側にも。


 三人の長い三週間は、こうして始まった。



 三日が過ぎた。


 バトラスはまだ寝台から離れられず、グレイも壁に手をつかなければまともに歩けない。


 町の治癒術師によれば、二人の傷は順調に塞がりつつあるらしい。


 だが、サラだけは違った。


 治癒術の光を拒んだ右肩の亀裂は、三日前から少しも変わっていない。


 それどころか、傷の奥で揺れていた魔力は日に日に弱くなっていた。


 深夜。


 宿場町が静まり返り、廊下から人の気配が消えた頃。


 サラはグレイの寝台の傍らに立っていた。


「本当に、今夜行うのですか」


「今夜じゃないと困るんだよ」


 グレイは包帯の巻かれた腹を押さえながら、ゆっくりと身体を起こした。


「明日になったら、お嬢さんの右腕が落ちるかもしれない」


「その可能性は低いです」


「低くても、あるんでしょ?」


「……はい」


「なら決まり」


 グレイは寝台から足を下ろす。


 立ち上がった瞬間、傷が引きつったのか、その顔が僅かに歪んだ。


 サラが腕を伸ばす。


「無理をしないでください」


「無理じゃないよ」


「壁に掴まっています」


「これは宿の壁が丈夫か確認してるだけ」


「先ほどから三度確認しています」


「念入りな性格なんだ」


 サラはしばらくグレイを見つめた。


「……私のために傷を悪化させる必要はありません」


 グレイの笑みが、ほんの少しだけ薄くなる。


「あるよ」


 短い言葉だった。


 それ以上、サラは何も言わなかった。


 二人は音を立てないように部屋を出た。


 バトラスは薬が効いているのか、深く眠っている。


 グレイは一度だけ振り返り、彼が目を覚まさないことを確かめると、サラとともに薄暗い廊下を進んだ。


 向かったのは、宿の最奥にある小さな空き部屋だった。


 昼間のうちにグレイが宿の主人から借りていた部屋だ。


 中には簡素な机と椅子が二脚。


 窓には厚い布が掛けられ、外から中を覗くことはできない。


 グレイは扉を閉めると、内側から鍵を掛けた。


 さらに扉の前へしゃがみ込み、指先で床をなぞる。


 黒い魔力が細い線となって広がり、扉を囲むように小さな術式を形作った。


「防音ですか」


「それと、人除け」


「誰かに見られて困ることはありません」


「お嬢さんは困らなくても、俺が困る」


 グレイは立ち上がり、額の汗を袖で拭った。


「死霊術を見て、喜ぶ人間は少ないからね」


 机の上には、既に道具が並べられていた。


 細い銀針。


 黒い糸。


 幾つもの小瓶。


 魔力を帯びた白い粉。


 そして、革張りの古びた手帳。


 どれもグレイが旅の荷物の奥にしまい込んでいたものだった。


「座って、お嬢さん」


 サラは椅子へ腰を下ろした。


 グレイは彼女の背後に立ち、右肩へ手を添える。


「痛みは?」


「ありません」


「感覚は?」


「右手の指先が、少し鈍いです」


「魔力の流れは?」


「肩から先が途切れます」


「やっぱりね」


 グレイは裂けたローブの肩口を慎重に開いた。


 サブナックの槍に抉られた傷。


 普通の人間なら、血と肉が覗いているはずの場所。


 だが、サラの身体に血は流れていない。


 傷の奥には黒い糸のような術式が幾重にも張り巡らされ、その一部が焼き切れていた。


 グレイの表情から、普段の軽さが消える。


「霊脈が三本断裂。固定式も二つ潰れてる」


「修復できますか」


「誰に聞いてるの?」


 グレイは銀針を一本取り上げた。


「影縫いのグレイだよ」


「暗殺者としての二つ名ではありませんか」


「今は気分の問題」


「そうですか」


「そこはもう少し安心してくれてもいいんだけどな」


「グレイなら修復できると、最初から分かっています」


 銀針を持つグレイの指が止まった。


「……そういうこと、さらっと言うよね」


「事実です」


「お嬢さんには敵わないな」


 グレイは小さく笑い、作業を始めた。


 銀針を傷口の縁へ差し込む。


 黒い魔力の糸が針穴を通り、切断された術式を一本ずつ繋いでいく。


 針を刺すたびに、サラの身体が僅かに震えた。


「痛くないんじゃなかった?」


「痛みではありません」


「じゃあ何?」


「あなたの魔力が流れ込む感覚です」


「気持ち悪い?」


「いいえ」


 グレイは返事をしなかった。


 ただ、少しだけ手つきが柔らかくなる。


 一本。


 また一本。


 切れた霊脈を結び直し、崩れかけた魔力の流れを整えていく。


 作業は繊細だった。


 少しでも接続を誤れば、サラの右腕は動かなくなる。


 最悪の場合、肉体に留めている魂そのものが不安定になる。


 グレイの額から汗が落ちた。


 腹部の傷が開いたのか、包帯の一部がゆっくりと赤く染まり始めている。


「グレイ」


「動かないで」


「傷が開いています」


「見えないから大丈夫」


「私には見えています」


「じゃあ見ないで」


「無理です」


「困ったお嬢さんだなぁ」


 声には笑いが混じっていた。


 だが、グレイは手を止めない。


 小瓶の一つを開け、白い粉を傷口へ振りかける。


 粉は淡い光を放ちながら黒い術式へ溶け込み、切断部分を補強した。


 続いてグレイは、サラの胸元へ指を当てる。


 衣服の奥。


 その中心には、死霊であるサラをこの世へ繋ぎ止める核がある。


 グレイが目を閉じる。


 指先から細い魔力を送り込むと、サラの身体を巡る黒い術式が淡く浮かび上がった。


「霊核は無事」


「はい」


「ただ、少しずれてる」


「戦闘の衝撃でしょうか」


「たぶんね。サブナックの槍、性格と同じで真っ直ぐすぎるんだよ」


「戦士として誇り高い方でした」


「死人になったら紹介してあげようか?」


「お断りします」


「だよね」


 グレイの口元に、ほんの僅かな笑みが戻った。


「お嬢さんの隣は、俺の席だから」


 サラが静かにグレイを見る。


 彼は作業に集中しており、自分の言葉の意味に気づいていないようだった。


 あるいは、気づいていて誤魔化しているのかもしれない。


「少し響くよ」


「構いません」


 グレイはサラの胸元へ当てた指に力を込めた。


 黒い光が一度、大きく脈打つ。


 サラの身体が椅子の上で僅かに跳ねた。


 次の瞬間、肩口から伸びる術式が一斉に繋がった。


 右腕の指先まで魔力が流れ、青白い光が淡く灯る。


「右手を動かしてみて」


 サラはゆっくりと腕を上げた。


 指を一本ずつ曲げ、握り、再び開く。


「違和感は?」


「ありません」


「魔力は?」


 サラの掌に冷気が集まる。


 小さな氷の花が咲き、その花弁が静かに輝いた。


「正常です」


「よし」


 その一言と同時に、グレイの身体が大きく傾いた。


「グレイ」


 サラが立ち上がり、倒れかけた彼を支える。


「大丈夫」


「大丈夫ではありません」


「終わったから、もう大丈夫」


 グレイはサラの肩へ腕を回したまま、力なく笑った。


「お嬢さんが壊れるよりは、安いもんでしょ」


「私の身体は、また修復できます」


「そういう話じゃないよ」


 グレイの声が低くなる。


 サラは何も答えなかった。


 ただ、彼の身体を支える腕に少しだけ力を込めた。


「……ありがとうございます」


「どういたしまして」


「ですが、次からは自分の治療を優先してください」


「それは無理かな」


「お願いです」


「俺の恋人なんだから、優先して何が悪いの?」


「ダメですか、生きてるグレイの治療を優先してほしいんです。」


 グレイは少し考えるような顔をした。


「いや」


「では、これは私からのお願いとして聞いてください」


「承りました」


「お願い聞く気ありませんね」


「ばれた?」


「最初から分かっています」


 サラはグレイを椅子へ座らせると、血の滲んだ包帯へ目を落とした。


「治癒術師を呼びます」


「待って。それは格好悪い」


「手遅れです」


「厳しいなぁ」


「あなたの影響です」


「責任重大だね」


 サラは机の上の道具を丁寧に片づけ始める。


 グレイは疲れ切った様子で椅子の背にもたれ、その姿を眺めていた。


 誰にも見られない、小さな部屋。


 誰にも知られることのない、二人だけの時間。


 サラの身体をこの世へ繋ぎ止めているものは、死霊術だけではない。


 おそらく二人とも、それを口にするつもりはなかった。


 やがてサラがグレイへ手を差し出す。


「戻りましょう」


「歩けるかな」


「私が支えます」


「じゃあ、お願いしようかな」


 グレイはその手を取った。


 冷たいはずのサラの手が、今夜だけはどこか温かく感じられた。



 第十五話へ続く

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