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槍の侯爵《下》

 グレイはサブナックから目を離さない。


「どんな武にも制約はある。」


「無制限に振れる武なんて存在しない。」


「なら、お兄さん。」


「さっきから一つだけやってないことがある。」


 サブナックは無言。


 しかし、その握る槍にほんの僅かな力が入る。


 グレイは見逃さなかった。


「やっぱり。」


「そこか。」


 ニヤリと笑う。


「ようやく、武人さんの悪い癖が見えてきた。」


 サブナックはゆっくりと息を吐いた。


「……面白い。」


「初めて。」


「我が武の癖に触れた者を見た。」


 その言葉と同時に。


 槍が、唸りを上げた。


「来る!」


 バトラスがケルベロスを構える。


 サブナックは一歩踏み込んだ。


 槍先が揺れる。


 一本。


 二本。


 三本。


 残像ではない。


 槍そのものが幾重にも重なって見えた。


「お兄さん!」


「右じゃない!」


「正面でもない!」


 グレイが叫ぶ。


 バトラスは咄嗟に身を沈める。


 ――ズドォンッ!!


 頭上を槍が薙ぎ払う。


 背後の石柱が真っ二つに裂けた。


 その直後。


 ――ガキィィン!!


 今度は真横から衝撃。


 ケルベロスで受け止めるが、腕が痺れる。


「くっ……!」


 サブナックは追撃しない。


 槍を静かに引き戻す。


 その一連の動きに、一切の無駄はなかった。


 グレイは笑う。


「ほら。」


「やっぱりだ。」


 サブナックは眉一つ動かさない。


「何がだ。」


「武人さんさ。」


「律儀なんだよ。」


「……。」


「さっきから必ず槍を戻してる。」


 沈黙。


 バトラスが振り返る。


「戻す?」


「そう。」


 グレイは指を鳴らした。


「消えてるように見えても、必ず元の構えに戻る。」


「一本目。」


「二本目。」


「三本目。」


「全部だ。」


 サラも静かに頷く。


「……確かに。」


「攻撃の後、槍の位置は必ず一定です。」


「つまり。」


 グレイは血の付いた短剣を肩に担ぐ。


「自由自在じゃない。」


「必ず帰る場所がある。」


 サブナックは初めて小さく息を吐いた。


「見事。」


 それだけだった。


 だが、その一言が何より雄弁だった。


 グレイは口元を吊り上げる。


「褒められると照れるね。」


「でも、まだ半分。」


「もう一つだけ聞かせてよ。」


「武人さん。」


「その槍――」


「届く場所にも限界があるんじゃない?」


 空気が変わった。


 サブナックは答えない。


 しかし、その沈黙だけで十分だった。


 グレイはニヤリと笑う。


「やっぱり。」


「お兄さん。」


「もう逃げ回る必要はない。」


 バトラスが目を細める。


「……どういうことだ。」


「簡単さ。」


 グレイは石畳に刻まれた無数の槍痕を指差した。


「武人さんはどこからでも刺せるわけじゃない。」


「戦場そのものを、自分の槍の間合いに変えてる。」


「だから――」


「その間合いの外へ引きずり出せばいい。」


 サブナックの瞳が、わずかに細くなった。


「……そこまで辿り着くか。」


 その声音には、初めて敵への敬意が混じっていた。


 グレイは口元の血を親指で拭う。


「いやいや。」


「褒められても嬉しくないね。」


「できれば傷薬でもくれない?」


 サブナックは微かに鼻で笑った。


「ならば勝ち取れ。」


「武とは、奪うものだ。」


「堅いねぇ。」


 グレイは肩を竦める。


「酒飲んでも説教しそうなタイプだ。」


 バトラスが低く唸る。


「遊んでいる場合か。」


「遊んでる?」


 グレイは笑う。


「違うよ、お兄さん。」


「喋るとね。」


「相手は意外と教えてくれる。」


 サブナックの視線が僅かに細くなる。


「……。」


「ほら。」


「今の顔。」


「当たりだ。」


 グレイはニヤリと笑った。


「武人さん、嘘が下手。」


 その瞬間。


 サブナックが地を蹴る。


 槍が消える。


「お兄さん!」


「三歩下がれ!」


 バトラスは迷わず後退した。


 ――ズドォォォン!!


 先程まで立っていた場所の石畳が爆ぜる。


 だが。


 グレイはそこを見ていない。


 見ているのは――槍が戻る瞬間だった。


「そこだ。」


 小さく呟く。


「お嬢さん。」


 サラは頷く。


 詠唱はない。


 指先だけが静かに動く。


 冷気が地面を這う。


 薄い氷。


 霜。


 白い靄。


 戦場全体へ静かに広がっていく。


 サブナックは動じない。


「視界を遮るか。」


「違うよ。」


 グレイは笑う。


「お嬢さんは、そんな雑な魔法は使わない。」


 次の瞬間。


 槍が再び消えた。


 しかし。


 白い霜の中に――


 一本の筋が走る。


 まるで誰かが透明なガラスを押したように。


 空気が裂ける。


「見えた!」


 サラが叫ぶ。


「そこです!」


 バトラスは振り返ることなくケルベロスを振る。


 ――ガギィィィン!!


 火花が散った。


 初めて。


 見えない槍を真正面から受け止めた。


 サブナックの瞳が開く。


「……。」


 グレイは吹き出した。


「ほらね。」


「消えてたんじゃない。」


「見えてなかっただけ。」


 サブナックは静かに槍を引く。


「続けろ。」


「まだ終わっていない。」


「もちろん。」


 グレイは折れた短剣を捨て、新しい一本を抜く。


「じゃあ次。」


「武人さん。」


「質問その二。」


「その槍さ。」


「空間を跳んでるんじゃない。


 自分で空間を裂いて通してる。」


 沈黙。


 サブナックは否定しない。


 グレイは笑みを深める。


「やっぱり。」


「だから必ず槍を引き戻す。」


「裂いた道は、槍一本分しか通れない。」


「だから何度も往復するしかない。」


 サラも続ける。


「霜が乱れるのも、その一本の道だけ。」


「転移なら、霜は全方位へ揺らぎます。」


「ですが違いました。」


「一本の線です。」


 バトラスはゆっくり立ち上がる。


「つまり。」


 グレイが指を鳴らした。


「答え合わせ終了。」


「武人さんの槍は、どこからでも出せるんじゃない。」


「槍一本分の裂け目を作り、その中を通している。」


「だから。」


「一本目を出してる間は。」


「二本目は出せない。」


 サブナックは初めて、大きく息を吐いた。


 その表情には悔しさではなく、純粋な感嘆があった。


「見事。」


「武を見て、理へ至ったか。」


 グレイは肩をすくめる。


「いやぁ。」


「褒められるのは嬉しいけどさ。」


「お兄さん。」


 バトラスを見る。


「ここからが力仕事。」


「頭脳担当は終わり。」


「筋肉担当、お願い。」


 バトラスは血を吐きながら笑った。


「言われなくても、そのつもりだ。」


 ケルベロスを構え直す。


 肩は悲鳴を上げている。


 肋骨も折れている。


 それでも踏み込む。


 真正面から。


「愚直。」


 サブナックが槍を構える。


 その瞬間。


 槍が消えた。


「お嬢さん!」


「右です!」


 サラの声が飛ぶ。


 霜の中に一本の白い筋。


 空間の裂け目。


 バトラスは迷わず剣を振る。


 ――ギィィィィン!!


 槍を受け止める。


 しかし力負けする。


 数歩押し込まれ、石畳が砕けた。


「ぐっ……!」


「まだ!」


 サラは杖を掲げる。


 冷気が裂け目へ流れ込む。


 空気そのものが白く凍り始めた。


 サブナックが僅かに眉を動かす。


「理を凍らせるか。」


「ええ。」


 サラは静かに答えた。


「通り道があるなら。」


「塞げます。」


 ――パキッ。


 裂け目の動きが、一瞬だけ鈍る。


 その一瞬。


「今だ。」


 グレイが笑った。


「武人さん。」


「せっかく道が一本しかないならさ。」


「渋滞させても文句ないよね?」


 影が伸びる。


 砕けた柱。


 崩れかけの修道院。


 バトラス。


 サブナック。


 無数の影が一つに繋がる。


 グレイは指先で地面をなぞった。


「――影縫い。」


 黒い影が音もなく走る。


 一本。


 また一本。


 まるで黒い糸が縫い合わせるように。


 サブナックの足元の影へ突き刺さった。


 ――ピシッ。


 空気が張る。


 サブナックの身体が止まる。


 ほんの一瞬。


 本当に瞬きほど。


 だが。


 止まった。


 サブナックは驚かない。


「ほう。」


 足元を見る。


「影を縫うか。」


 グレイは肩を竦めた。


「そう。」


「だから『影縫いのグレイ』。」


「安直な二つ名でしょ?」


 サブナックは動こうとする。


 しかし。


 影が離さない。


 グレイの額から血が流れる。


 唇も青い。


 それでも笑う。


「お兄さん。」


「俺、力比べは苦手なんだ。」


「だから長くは保たない。」


「三秒。」


「いや。」


「二秒半かな。」


 サラがすぐに続ける。


「二秒で十分です。」


 杖を振る。


 凍てつく霜が裂け目へ流れ込む。


 一本しかない”道”を完全に凍らせる。


 槍が戻れない。


「……見事。」


 サブナックが初めて感嘆を漏らした。


「武を知る者同士の連携か。」


「いや。」


 グレイはニヤリと笑う。


「俺は頭脳担当。」


「お嬢さんはサポート担当。」


「筋肉担当は――」


 バトラスは既に踏み込んでいた。


「待たせた。」


 グレイが叫ぶ。


「お兄さん!」


「今なら武人さん、足が床とお友達だ!」


「その例えはやめろ。」


 笑いながら。


 バトラスはケルベロスを振り上げる。


「グォゥラビティィイ」


 重力が剣へ集まる。


 腕が軋む。


 骨が悲鳴を上げる。


 それでも止めない。


 サブナックは逃げない。


 避けない。


 槍を正面へ構える。


「よかろう。」


「これが貴様ら三人の武ならば。」


「我が武で応えよう。」


 悪魔と人間。


 三人の想いと、一柱の武。


 すべてが激突した。


 ――轟音が、修道院一帯を揺るがした。


 土煙が舞い上がる。


 砕けた石柱が崩れ落ち、修道院全体が軋んだ。


 誰も動かない。


 静寂だけが辺りを支配する。


「……やったか?」


 グレイが肩で息をしながら呟く。


「その台詞は縁起が悪いです。」


 サラが即座に返す。


「ははっ。」


「お嬢さんも分かってきたじゃない。」


 その時だった。


 ――ガラン。


 槍が石畳を叩く音。


 土煙の向こうから、一つの影が現れる。


 サブナックだった。


 右肩の鎧は砕け、胸には深い斬撃が刻まれている。


 紫黒い血が滴り落ち、槍を握る腕も震えていた。


 それでも。


 倒れてはいない。


 バトラスは思わず息を呑む。


「……受け切ったのか。」


 サブナックは静かに首を横へ振った。


「違う。」


「受け切れなかった。」


 その言葉に三人の表情が変わる。


 サブナックは胸の傷へ視線を落とす。


「見事な連携だった。」


「一人では届かなかった。」


「二人でも届かなかった。」


「だが。」


「三人であったから、この傷を負った。」


 武人らしく、勝負を正しく認める。


 グレイは口元を拭った。


「褒められるのは悪くないね。」


「でもさ。」


「武人さん。」


「できれば倒れて褒めてくれない?」


 サブナックは小さく笑う。


「それは出来ぬ。」


 次の瞬間。


 胸の傷口が蠢いた。


 肉が盛り上がる。


 裂けた皮膚が繋がり始める。


「……始まった。」


 サラが唇を噛む。


「再生です。」


 バトラスが剣を握り直す。


「やはり七侯爵は再生するのか。」


 グレイだけは傷口を見続けていた。


 笑わない。


 茶化さない。


 ただ観察する。


「……違う。」


 サラが振り向く。


「グレイ?」


「違うよ、お嬢さん。」


 彼は静かに首を振る。


「傷が治ってるんじゃない。」


「傷を”治してる”何かがいる。」


 サブナックの瞳が細くなる。


「ほう。」


 グレイはその反応を見て、再びいつもの笑みを浮かべた。


「またその顔。」


「武人さんさ。」


「本当に分かりやすい。」


「無口なのに顔だけは正直なんだから。」


 サブナックは槍を構え直す。


「続けろ。」


「その推察。」


「望むところ。」


 グレイは短剣をくるりと回した。


「じゃあ遠慮なく。」


「お兄さん。」


「さっきの一撃、手応えあったでしょ?」


「ああ。」


「骨まで届いた。」


「だよね。」


「なのに治る。」


「つまり。」


 グレイはサブナックを指差した。


「武人さん。」


「お前が生きてる理由は、その身体じゃない。」


 サブナックは初めて、満足そうに笑った。


「そこまで見抜くか。」


 グレイはニヤリと笑う。


「俺、観察だけは得意だからね。」


「さて。」


「次の問題だ。」


「その命の置き場所は――どこだ?」


 静寂が流れる。


 サブナックは何も答えない。


 ただ槍を構えたまま、三人を見据えていた。


「まぁ。」


 グレイは肩を竦めた。


「教えてくれるほど、お人好しじゃないか。」


「当然だ。」


 サブナックは静かに言う。


「武とは、見抜くもの。」


「与えられるものではない。」


「はいはい。」


「真面目だねぇ。」


 グレイは笑いながら短剣を回す。


「お兄さん。」


「この武人さん、きっと子供の頃から通知表に『協調性がありません』って書かれてるよ。」


「悪魔に通知表はあるのか。」


 バトラスが真顔で返す。


「そこ突っ込む?」


 グレイは吹き出した。


 その空気を切り裂くように。


 サブナックが踏み込む。


 槍が消えた。


「お嬢さん!」


「右!」


 霜が裂ける。


 バトラスが受け止める。


 ――ガギィィン!!


 火花が散る。


 その間に。


 サラは目を閉じていた。


 魔力ではない。


 生命。


 存在。


 その流れだけを追う。


「……。」


 静かに息を吐く。


「見えません。」


「ん?」


 グレイが振り返る。


「見えない?」


「はい。」


「心臓。」


「脳。」


「魔力。」


「どこを見ても。」


「中心がありません。」


 グレイの笑みが消える。


「……そういうことか。」


 サブナックの槍が襲う。


 バトラスは受ける。


 押される。


 膝が沈む。


「まだだ!」


 叫ぶ。


 耐える。


「もう一回!」


 グレイが叫ぶ。


「お嬢さん!」


「傷だけ見て!」


 サラは頷く。


 今度は再生だけを見る。


 裂けた胸。


 砕けた肩。


 流れる紫黒の血。


 その全てが。


 ある一点へ吸い寄せられていた。


「……ありました!」


 サラが叫ぶ。


「一点だけ!」


「全部そこへ集まっています!」


 グレイの口元が吊り上がる。


「ほら。」


「やっぱり。」


「武人さん。」


「命は身体にない。」


 サブナックは答えない。


 しかし。


 槍を握る左手だけが、ほんの僅かに強く握られた。


 グレイは見逃さない。


「今。」


「そこ。」


 短剣で指す。


「左胸じゃない。」


「心臓でもない。」


「もっと奥。」


「違う。」


「身体の中ですらない。」


 サブナックの瞳が揺れた。


 初めて。


 ほんの一瞬だけ。


「当たり。」


 グレイは笑った。


「やっぱり武人さん。」


「顔に出る。」


 サラも気付く。


「違います!」


「生命力が……。」


「身体を循環していない。」


「外から戻っています!」


 バトラスが息を呑む。


「外だと?」


 グレイは静かに頷いた。


「そう。」


「だから何度斬っても治る。」


「身体は器。」


「命は別。」


 サブナックはゆっくりと槍を下ろした。


 その眼差しには敵意ではなく、賞賛が宿っていた。


「見事。」


「そこまで理へ届いたか。」


「じゃあ最後。」


 グレイは短剣を構える。


「武人さん。」


「答え合わせしよう。」


「お前の命。」


「その槍の中だろ。」


 空気が止まる。


 サラの瞳が大きく開く。


「……!」


 バトラスも槍を見る。


 今まで。


 サブナックは一度たりとも槍を手放していない。


 槍は常に共にあり。


 傷を負っても。


 影縫いされても。


 凍らされても。


 決して離さなかった。


 サブナックは静かに目を閉じる。


 そして。


 武人らしく頷いた。


「……見事。」


「勝負は、ここからだ。」


 サブナックが槍を構える。


 真紅の瞳に迷いはない。


 互いの理を知った。


 ならば。


 あとは武のみ。


 サブナックの槍先が消える。


「お嬢さん!」


「三本!」


 サラの声が飛ぶ。


 霜の中に三本の裂け目が走る。


 だが。


 グレイは笑っていた。


「違う。」


「一本だ。」


 その瞬間。


 グレイの身体が影へ沈む。


 砕けた石柱。


 瓦礫。


 バトラスの影。


 まるで水の中を泳ぐように。


 影から影へ滑る。


「武人さん。」


 サブナックの真後ろから声だけが響く。


「後ろって嫌い?」


 槍が振り返る。


 しかし。


 そこには誰もいない。


「残念。」


「こっち。」


 今度は左。


 サブナックは石突きを放つ。


 グレイは再び影へ沈む。


「また外れ。」


 右。


 背後。


 頭上。


 影から影へ。


 姿を現しては消える。


 まるで戦場そのものが、グレイの庭だった。


 サブナックは笑った。


「先程から気にはなっていたが。」


「影を棲み処とするか。」


「気に入ってるんだ。」


「家賃もかからないし。」


 その一瞬だった。


 サブナックの足元の影へ。


 黒い糸が走る。


「――影縫い。」


 影が針で縫われたように張り詰める。


 サブナックの右足が止まる。


 左足も止まる。


 完全ではない。


 だが。


 武人にとって、その一歩が奪われることは致命的だった。


「今!」


 サラが杖を突き出す。


「《氷霧界》!」


 冷気が裂け目へ雪崩れ込む。


 一本しかない”槍の道”が。


 音を立てて凍結していく。


 パキッ。


 パキパキッ。


 裂け目そのものが白く染まる。


 サブナックが槍を引く。


 しかし。


 戻らない。


「ほう……。」


 初めて。


 その声に驚きが混じる。


「理を止めるか。」


 グレイは額から血を流しながら笑った。


「違う違う。」


「止めたのは、お嬢さん。」


「俺は武人さんの足を踏んづけてるだけ。」


 サブナックは動く。


 影が軋む。


 影縫いが悲鳴を上げる。


「くっ……。」


 グレイの膝が折れる。


 鼻血が地面へ落ちる。


「さすが。」


「重いねぇ。」


「悪魔ってダイエットしないの?」


「……。」


 サブナックは答えない。


 だが。


 止まっている。


「お兄さん!」


 グレイが吠えた。


「今だぁぁ!!」


 バトラスは応えない。


 必要ない。


 既に走っていた。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 踏み出す度に。


 大地が陥没する。


 ケルベロスへ。


 重力が集まる。


「重く。」


 ズンッ……


 空気が沈む。


 瓦礫が浮かない。


 沈む。


 石柱が軋み。


 地面がひび割れ。


 サブナックの膝が僅かに沈んだ。


 さらに。


「もっと重く。」


 ゴゴゴゴゴ……


 ケルベロスの周囲だけ。


 空間が歪む。


 瓦礫が押し潰され。


 石畳が粉になっていく。


 バトラスの両腕から血が噴き出す。


 筋肉が悲鳴を上げる。


 骨が軋む。


 それでも止めない。


「まだだ……!」


 サラが叫ぶ。


「あと一秒!」


 グレイも笑う。


「頑張れお兄さん!」


「その剣!」


「もう山一個くらい重そうだから!」


「黙れ!」


 バトラスが咆哮する。


「――グゥォラビティィイッ!!」


 重剣が振り下ろされる。


 その瞬間。


 地面そのものが落ちた。


 轟音。


 衝撃波。


 半径数十メートルの石畳が一斉に砕け、巨大なクレーターが生まれる。


 修道院を囲む壁は耐え切れず崩落し、塔が横倒しになる。


 土煙が天へ昇る。


 サブナックは正面から槍を構えた。


「これぞ――」


 槍と重剣が激突する。


 その衝撃で。


 空間を凍らせていた裂け目が、完全に砕け散った。


 ――バキィィィィン!!


 甲高い音が修道院一帯へ響く。


 サブナックの槍が、大きく弾かれる。


 その一瞬。


 サブナックは目を見開いた。


「……見事。」


 初めてだった。


 武が崩れた。


 槍の道は閉ざされ。


 裂け目は消えた。


 もはや、空間を貫く一撃は放てない。


 グレイが笑う。


「武人さん。」


「いろいろ壊れちゃったね。」


 サブナックは静かに槍を握り直す。


「ならば。」


「槍一本で足りる。」


「……。」


 グレイの笑みが深くなる。


「そう来なくちゃ。」


「それでこそ武人。」


 影へ沈む。


 次の瞬間には。


 サブナックの真横から現れた。


「でもさ。」


「一本なら。」


「俺でも読める。」


 短剣が閃く。


 サブナックは槍で払う。


 グレイは再び影へ沈む。


 右。


 左。


 背後。


 影から影へ。


 まるで黒い獣が獲物を弄ぶように。


「鬱陶しい。」


 サブナックが初めてそう呟く。


 グレイは吹き出した。


「やっと言った。」


「ずっと真面目だから、我慢大会してるのかと思った。」


「だが。」


 サブナックは槍を返す。


「貴様は仕留められぬ。」


「そう?」


「なら。」


 グレイの笑みが消える。


「仕留めるのは俺じゃない。」


 影から飛び出す。


 その短剣はサブナックを狙わない。


 狙ったのは――


 槍の影。


「――影縫い。」


 黒い杭が影へ突き刺さる。


 パシィィッ!!


 槍の影が石畳へ縫い付けられた。


 サブナックの腕が止まる。


「……!」


 初めて。


 サブナックの表情が変わる。


「武器まで縫うか。」


「武人さん。」


 グレイは笑う。


「影があるなら。」


「何だって縫える。」


 サブナックは力任せに引く。


 影が軋む。


 石畳が割れる。


 グレイの膝が沈む。


 鼻から血が流れる。


「くっ……!」


「重っ……!」


「やっぱ悪魔ってさ。」


「見た目よりずっと重いよな。」


「グレイ!」


 サラの声。


「あと一瞬です!」


 サラは杖を掲げた。


 砕け散った霜が。


 再び舞い上がる。


「《氷葬》。」


 槍へ冷気が集まる。


 柄。


 穂先。


 血。


 すべてを巻き込み。


 一瞬で白銀に染め上げる。


 ギギギギ……


 槍が凍る。


 サブナックは動かない。


 動けない。


「お兄さん。」


 グレイが叫ぶ。


 その声に、いつもの軽さはなかった。


「今度こそ最後だ。」


「もう外したら。」


「笑えない。」


 バトラスは答えない。


 静かに。


 ケルベロスを握り直した。


 鎖が音を立てる。


 ジャラリ……


 柄頭から伸びた黒い鎖が、蛇のように空を走る。


 サブナックの槍へ絡み付く。


「……鎖か。」


 サブナックが小さく呟く。


 バトラスは鎖を一気に引いた。


 ガァァァン!!


 槍ごとサブナックの体勢が崩れる。


 その一歩。


 その半歩。


 武人にとっては致命だった。


 バトラスは吼える。


 そしてそのとき、バトラスの首にある荊の契約紋が淡く紫に光を放った。


「終わりだぁぁぁぁぁぁっ!!」


 ケルベロスが振り下ろされる。


 重力が咆哮する。


 大地が沈む。


 礼拝堂の瓦礫が、一斉にその一撃へ吸い寄せられる。


 サブナックは逃げない。


 避けない。


 ただ静かに目を閉じた。


「……見事。」


 その一言だけを残し。


 武人は最後の一撃を、真正面から迎え撃った。


――轟ッ!!


 ケルベロスが槍を叩き砕く。


 凍てついた穂先は粉々に砕け、砕氷のように宙を舞った。


 衝撃は止まらない。


 重剣はそのままサブナックの胸を打ち抜き、紫黒い輝きを放つ核を露わにする。


 サブナックは膝をついた。


 核には既に深い亀裂が走っている。


 あと一撃。


 あと一撃で終わる。


 それでも武人は笑っていた。


 バトラスはケルベロスを構えたまま口を開く。


「終わらせる前に聞く。」


 サブナックは静かに頷く。


「申せ。」


「剣の侯爵。」


「アスモデウスはどこにいる。」


 サブナックはバトラスを見据える。


「……奴を追うか。」


「ああ。」


「この命に代えても討つ。」


 短い沈黙。


 やがてサブナックは口を開いた。


「我ら七侯爵は互いに干渉せず、各々が好きに動いている」


「だから居場所はわからない。」


「だが一つ教えよう。」


「奴は――上位四侯だ。」


 その一言で空気が変わる。


 バトラスの眉が僅かに動く。


「上位……四侯。」


 その横からグレイが歩み出る。


「じゃあ次は俺。」


 サブナックは視線を移す。


「弓の侯爵。」


「レラジェは?」


 サブナックは一瞬だけ目を閉じた。


「奴もまた。」


「上位四侯。」


 グレイの笑みが消える。


「……そう。」


「つまり。」


「俺たちがこれから追う相手は。」


「二人とも同じ上位四侯ってことか。」


 サブナックは静かに頷いた。


「そうだ。」


「剣の侯爵。」


「弓の侯爵。」


「共に上位四侯。」


「そして。」


「貴様らが今のまま挑めば。」


 そこで言葉を切る。


 静かな笑みを浮かべ。


「勝てぬ。」


 誰も言い返さなかった。


 その言葉には虚勢も侮蔑もない。


 武人として戦い抜いた悪魔だからこその、揺るぎない断言だった。


 バトラスは静かにケルベロスを握り直す。


「それでも行く。」


 グレイも口元を吊り上げる。


「勝てないなら。」


「勝てるようになってから会いに行くだけ。」


 サブナックは満足そうに笑った。


「……そうか。」


「ならば。」


「進め。」


「武を貫け。」


 バトラスは静かに頷く。


「ああ。」


 それ以上、言葉は交わさなかった。


 武人に別れの言葉は要らない。


 バトラスはケルベロスを振り上げる。


 重力が再び剣身へ収束した。


「眠れ。」


 ――ズドォォォォンッ!!


 重剣が悪魔の核を貫く。


 紫黒い核は一瞬だけ眩く輝き――


 パキン。


 静かな音を立てて砕け散った。


 サブナックの身体は灰となり始める。


 その表情は穏やかだった。


「……見事。」


  武人は微笑みを浮かべたまま、完全に消滅した。


 修道院を包んでいた禍々しい魔力も、ゆっくりと霧散していく。


 静寂だけが残った。


「終わった……。」


 サラが小さく息を吐く。


 張り詰めていた肩から力が抜け、その場に膝をついた。


 グレイも短剣を鞘へ収めると、頭を掻きながら笑った。


「いやぁ……危なかった。」


「正直、今回は死んだと思ったよ。」


 グレイは脇腹を押さえながら苦笑した。


「いてて……。」


「さすがに今回は痛かったな。」


 それでも笑みは崩さない。


 バトラスは額の血をぬぐいながらケルベロスを肩へ担ぐ。


「無理はするな。」


「平気、平気、お兄さんこそね?」


 グレイは軽く手を振る。


 そして、何かを思い出したように指を鳴らした。


「あ、お兄さん。」


「一つ、大事なことに気付いたんだ。」


「何だ。」


 グレイはパーティ全員を見回す。


「このパーティ。」


「さすがに脳筋すぎない?」


 一瞬、沈黙が流れる。


 サラが首を傾げた。


「……否定はできません。」


「でしょ?」


 グレイは肩をすくめる。


「今さらだけどさ。」


「治癒術師がいないんだよね、俺たち。」


 バトラスは腕を組む。


「治癒術師か……。」


 グレイは少し真面目な顔になる。


「そう。」


「お兄さんって、治癒術師って職業知ってる?」


 バトラスは足を止めた。


「……。」


 グレイは肩をすくめる。


「知ってるならいいんだけどさ。」


「俺たち、このままじゃそのうち本当に死ぬよ。」


 バトラスは黙ったまま、どこか遠くを見る。


「どうしたの?」


「……いや。」


「少し、昔を思い出しただけだ。」


 グレイは首を傾げた。


「昔?」


 バトラスは答えない。


 吹き抜ける風が、崩れた修道院を静かに撫でる。


 やがて彼は背を向けた。


「行くぞ。」


「その話は、歩きながら聞く。」


 グレイは小さく笑う。


「了解、お兄さん。」


 三人は満身創痍の身体を引きずるように、崩れた修道院を後にした。



 第十四話へ続く

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