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12/13

槍の侯爵《上》

 山道を吹き抜ける風が、木々を大きく揺らした。


 三人は北へ続く一本道を歩いていた。


 先頭はバトラス。


 その背中を、グレイとサラが追う。


 ルルたちのいた修道院を出てから、まだそれほど時間は経っていない。


 サブナックも、この道の先にいるはずだった。


「そんなに急がなくても逃げやしないよ、お兄さん。」


 グレイが軽く笑う。


「相手は七侯爵だ。」


「だから?」


「逃げるような性格には見えなかった。」


 バトラスは答えない。


 ただ歩幅だけが少し広がる。


「ほら。」


「図星だった。」


「急いでるんじゃなくて、早く斬りたいんでしょ。」


「……。」


「否定しないんだ。」


 グレイは肩を竦めた。


「分かりやすいなぁ。」


 サラが小さく微笑む。


「お二人とも、元気ですね。」


「お嬢さん、それ褒めてる?」


「はい。」


「それなら素直に受け取っておこう。」


 バトラスだけは前を見たままだった。


「遊びに行くわけではない。」


「知ってる知ってる。」


 グレイは苦笑する。


「だから空気が重くならないように喋ってるんだよ。」


 その言葉に、バトラスは何も返さなかった。


 沈黙が続く。


 しばらく歩いたところで、サラが足を止めた。


「……静かです。」


 二人も立ち止まる。


 確かに静かだった。


 風は吹いている。


 枝葉も揺れている。


 だが、それだけだ。


 鳥の鳴き声が一つも聞こえない。


 虫の羽音すらない。


 グレイは森を見回した。


「確かに変だね。」


「鳥なら人が近付けば飛ぶ。」


「でも鳴き声くらいは聞こえる。」


「何かがいるのでしょうか。」


 サラの問いに、グレイは首を横へ振る。


「いる、というより。」


 彼は空を見上げた。


「近寄りたくない何かが、この先にある。」


 バトラスは短く言う。


「サブナックか。」


「その可能性は高い。」


 グレイは珍しく笑わなかった。


「動物は人間より敏感だからね。」


「危険を感じたら、先に姿を消す。」


 再び歩き出す。


 山道を曲がった先で、視界が開けた。


 森の向こう。


 夕日に照らされる石造りの建物。


 古びた尖塔。


 高い塀。


 北の修道院だった。


 しかし。


 その静けさは、あまりにも不自然だった。


 人の姿が、一人も見えない。


 バトラスはケルベロスの柄へ手を添える。


「着いたか。」


 グレイは細く息を吐いた。


「いや。」


「ここからだよ。」


 グレイが顎で修道院を示す。


 バトラスも視線を向けた。


 北の修道院は、山肌に寄り添うように建っていた。


 夕日に照らされた石壁は古く、それでも荘厳な威厳を失ってはいない。


 だが。


 その周囲の景色だけが、わずかに揺らいでいた。


 熱気でもない。


 蜃気楼でもない。


 空間そのものが、水面のように波打っている。


 サラが静かに呟く。


「……結界です。」


 バトラスは目を細めた。


「あれが。」


「はい。」


「かなり古いものですが、まだ機能しています。」


 グレイが笑う。


「つまり。」


「まだ中には入れてないってことだ。」


 バトラスは僅かに息を吐いた。


「間に合うか。」


「多分ね。」


 グレイは肩を竦める。


「七侯爵が正面から来て、まだ壊せてない。」


「結構頑丈なんじゃない?」


 その時だった。


 ――ドン。


 腹の底へ響く重低音。


 結界全体へ波紋が走る。


 透明だった膜が一瞬だけ蒼白く輝いた。


 三人は同時に足を止める。


「今のは。」


 サラが結界を見つめる。


「攻撃されています。」


 ――ドォンッ。


 二度目。


 今度は先ほどより強い。


 結界の表面へ、蜘蛛の巣のような光の亀裂が一瞬だけ走った。


 しかし次の瞬間には修復される。


 グレイの口元から笑みが消える。


「面白い。」


「壊れてない。」


「でも修復も追いつかなくなってきてる。」


 バトラスは剣の柄を握る。


「破られるまで時間は。」


 サラは結界を見つめたまま答えた。


「……分かりません。」


「ですが。」


「長くはもちません。」


 再び轟音。


 今度は聖堂の尖塔から白い鳥が一斉に飛び立つ。


 結界が激しく揺らぎ、空気そのものが震えた。


 グレイが前へ出る。


「行こう、お兄さん。」


「今ならまだ。」


「奴は結界を相手にしてる。」


「こっちには気付いてない。」


 バトラスは頷く。


「ああ。」


 三人は一斉に駆け出した。


 修道院の門へ近づくほど、結界の揺らぎは激しさを増していく。


 そして、あと数十歩という距離まで迫った、その瞬間――


 ――パキッ。


 ガラスへ小さなひびが入るような音が、山全体へ静かに響いた。


 三人は思わず足を止める。


 サラの表情が変わる。


「……まずい。」


「限界です。」


 サラの言葉が終わるより早かった。


 ――パリン。


 澄んだ音が、山中へ響く。


 小さな音だった。


 それでも。


 結界全体へ一本の亀裂が走る。


 その亀裂は瞬く間に広がり――


 パリンッ!!


 光の壁が砕け散った。


 無数の光の欠片が夕焼けの中へ舞い上がる。


 同時に、今まで閉ざされていた気配が一気に溢れ出した。


 重い。


 息苦しいほどの圧力。


 まるで山そのものが三人を見下ろしているようだった。


「これが……七侯爵。」


 サラが小さく息を呑む。


 バトラスは何も答えない。


 ケルベロスを静かに抜いた。


 グレイだけが目を細める。


「お兄さん。」


「分かってる。」


「違う違う。」


 グレイは苦笑した。


「突っ込む前に、一回見る。」


「癖になってるね。」


 バトラスは無言のまま修道院を見据えた。


 やがて。


 門の石造りの大扉が、ゆっくりと内側から開いた。


 軋む音が静寂を裂く。


 暗闇の中から、一人の男が姿を現した。


 黒い外套。


 その手には、身の丈を超える長槍。


 穂先は血のように赤黒く染まっている。


 男は三人を見もしない。


 そのまま空を見上げ、小さく舌打ちした。


「……ここでもない。」


 低く、感情のない声。


「ならば。」


「東か。」


 そう呟き、階段を下り始める。


 バトラスは剣を構えた。


「待て。」


 男の足が止まる。


 ゆっくりと振り返る。


 初めて、その真紅の瞳が三人を捉えた。


 殺気。


 いや。


 それよりも冷たい何か。


 男はバトラスを一瞥したあと、興味を失ったように視線を逸らした。


「退け。」


「今は貴様らに構っている時間はない。」


 グレイが肩を竦める。


「ずいぶん失礼だなぁ。」


「こっちは追いかけてきたのに。」


 サブナックは答えない。


 ただ一歩だけ前へ出る。


 その瞬間。


 グレイの笑みが消えた。


「お兄さん。」


「まだ。」


「剣は振るうな。」


 バトラスが眉をひそめる。


「何だ。」


 グレイはサブナックの槍を見つめたまま、小さく呟いた。


「……何かがおかしい。」


 バトラスは剣を構えたまま問い返す。


「何がだ。」


「分からない。」


 グレイは即答した。


「だから気持ち悪い。」


 視線は一度もサブナックから逸らさない。


 槍。


 立ち姿。


 重心。


 呼吸。


 そのすべてを観察していた。


「槍使いなら。」


「普通は穂先を相手へ向ける。」


「でも、あいつは違う。」


 サブナックは槍を肩へ担ぐように持っている。


 隙だらけだった。


 まるで構える必要すらないと言わんばかりに。


「舐められてるだけじゃないか。」


 バトラスが言う。


 グレイは首を横へ振った。


「違う。」


「俺なら、あんな持ち方はしない。」


「何故です。」


 サラが尋ねる。


「長槍は間合いが命だ。」


「相手へ穂先を向けて初めて意味がある。」


「でも。」


 グレイは目を細めた。


「あいつには、その必要がない。」


 沈黙。


 その言葉に、バトラスも僅かに眉を寄せる。


「つまり。」


「槍を突き出す必要がないってこと?」


 グレイは独り言のように続けた。


「いや……違う。」


「届く?」


「飛ぶ?」


「いや、それならもっと構える。」


 考えを否定していく。


「違うな。」


「全部違う。」


 その時だった。


 サブナックが初めて口を開く。


「終わったか。」


 三人の視線が集まる。


 サブナックは面倒そうにため息を吐いた。


「観察は。」


「弱者ほど長い。」


 グレイは笑った。


「褒め言葉として受け取っておくよ。」


「お兄さん。」


「まだ斬るな。」


 バトラスは一歩前へ出ようとしていた足を止める。


「理由は。」


「まだ見えてない。」


 グレイの笑みは消えていた。


「見えない相手に飛び込むほど、俺は馬鹿じゃない。」


 サブナックは槍の石突きを、静かに地面へ突いた。


 ――コン。


 乾いた音が響く。


 その瞬間。


 グレイの瞳が大きく見開かれた。


「っ!」


 何かを感じ取った。


 だが、その正体までは掴めない。


 次の瞬間――


 サブナックの姿が、ふっと消えた。


「右だ!」


 グレイの声と同時に、バトラスが身体を捻る。


 ――ギィィンッ!!


 耳を裂く金属音。


 虚空から現れた槍が、ケルベロスを弾いた。


 衝撃で石畳が砕け散る。


 バトラスは後方へ滑りながらも体勢を崩さない。


「……。」


 サブナックは十数歩先に立っていた。


 まるで最初からそこにいたように。


 グレイは笑みを消す。


「姿を消したわけじゃない。」


「空間……いや、違う。」


「まだ分からないか。」


 低く響く声。


 サブナックは静かに槍を下ろした。


「人の知恵で見抜けぬなら、それまでだ。」


 挑発でも、自慢でもない。


 ただ事実を述べる口調だった。


 バトラスは剣を構える。


「貴様は何者だ。」


 サブナックは一瞬だけ目を閉じる。


 そして静かに答えた。


「我が名はサブナック。」


「七侯爵が一角。」


「槍を司る侯爵、そして貴様ら人間たちからは悪魔と呼ばれている。」


 その一言に、空気が凍り付く。


 サラが思わず息を呑んだ。


「悪魔……。」


「本当に存在していたのですね。」


 サブナックは頷きもしない。


「人は己が理解できぬものを伝承と呼ぶ。」


「それだけのこと。」


 グレイが小さく笑った。


「なるほど。」


「じゃあ、お兄さんが人間相手の間合いで戦おうとしても通じないわけだ。」


 サブナックは初めてグレイを見る。


 その視線には、わずかな興味だけが宿っていた。


「貴様。」


「目は悪くない。」


「だが。」


 サブナックは槍を静かに構える。


 その所作には一切の無駄がない。


 美しいほど洗練されていた。


「武とは、見て学ぶものではない。」


「命を賭して知るものだ。」


 静かに一歩踏み出す。


 それだけで空気が張り詰める。


 バトラスもケルベロスを構え直した。


「来い。」


 短い一言。


 それだけで十分だった。


 サブナックの真紅の瞳が細くなる。


「望むところだ。」


 次の瞬間、槍が消えた。


「来る!」


 グレイの叫び。


 しかし、その警告より速く。


 ――ドゴォォン!!


 バトラスの真横で石畳が爆ぜた。


 土煙が舞い上がる。


 槍は見えない。


 ただ、地面だけが抉れている。


「どこだ!」


 バトラスが叫ぶ。


「上!」


 サラの声。


 反射的に見上げる。


 空には誰もいない。


「違う!」


 グレイが首を振る。


「見せかけだ!」


 その瞬間。


 ――ガンッ!!


 鈍い衝撃がバトラスの脇腹を襲った。


「ぐっ……!」


 甲冑が大きく凹み、身体が十数メートル吹き飛ぶ。


 石壁へ叩きつけられ、壁面に亀裂が走る。


「お兄さん!」


 グレイが影へ潜る。


 同時にサラが魔法陣を展開した。


「《氷結》!」


 無数の氷柱がサブナックを囲む。


 しかし。


 サブナックは一歩も動かない。


 ――ズバァッ!!


 空間の至る所から槍撃が走る。


 氷柱が一瞬で粉砕された。


「……っ!」


 サラの肩が裂ける。


「サラ!」


 グレイが抱き寄せる。


 その背後へ。


 何もない空間から槍が現れた。


「しまっ――」


 ドンッ!!


 穂先ではない。


 石突きだった。


 グレイは背中から吹き飛ばされ、石段を転げ落ちる。


 息ができない。


 肺から空気が強制的に吐き出された。


「げほっ……!」


 それでも立ち上がる。


 サラも杖を支えに立とうとする。


 サブナックは槍を肩へ担ぎ直した。


「遅い。」


 その一言だけだった。


 バトラスが血を吐きながら立ち上がる。


 左腕は痺れ、力が入らない。


 肋骨も数本折れている。


 それでも剣だけは離さない。


「まだ……終わっていない。」


 サブナックは静かに頷いた。


「その気概は見事だ。」


「だが。」


「武とは、気概だけでは届かぬ。」


 その言葉と同時に、槍がゆっくりと持ち上がる。


 速くはない。


 誰の目にも映る動きだった。


「来る!」


 バトラスはケルベロスを正眼に構える。


 次の瞬間。


 サブナックの姿が霞んだ。


 ――ギィィンッ!!


 激しい衝撃。


 バトラスは咄嗟に剣で受け止めた。


 しかし。


「なっ……!」


 穂先は目の前にない。


 槍は、背後から振り抜かれていた。


 鎧ごと背中を抉られ、鮮血が舞う。


 バトラスは膝をつく。


「お兄さん!」


 グレイが飛び出す。


 影を踏み、サブナックの死角へ滑り込む。


 短剣が喉元を狙う。


 ――届く。


 そう確信した瞬間。


 槍の石突きが、腹部へめり込んだ。


「がはっ!」


 胃の中身を吐き出しながら、グレイは地面を転がる。


「速い……違う。」


 血を吐きながら呟く。


「速いんじゃない……。」


 答えは出ない。


 まだ届かない。


 サラは震える手で魔法陣を描く。


「《氷結陣》!」


 白い光が石畳を走る。


 一瞬でサブナックの足元を氷が覆う。


 だが。


 サブナックは足を止めない。


 氷を踏み砕きながら、一歩前へ出る。


「良い術だ。」


 静かな声だった。


「されど。」


「武を止めるには足りぬ。」


 槍が薙ぐ。


 衝撃だけで氷が砕け散り、サラの身体が宙を舞った。


 石柱へ激突する。


「サラ!」


 グレイが叫ぶ。


 しかし返事はない。


 バトラスは剣を杖代わりに立ち上がる。


 腕は震え、視界も霞む。


 それでも前へ出る。


 サブナックはその姿を見つめ、静かに口を開いた。


「退かぬか。」


「退けん。」


 短い返答だった。


 サブナックは目を閉じる。


「ならば。」


「武人として応えよう。」


 槍を構える。


 その構えは先程までとは違っていた。


 初めて。


 真正面からバトラスへ穂先を向ける。


 その瞬間。


 グレイの表情が変わる。


「……まずい。」


「お兄さん!」


「今までのは、本気じゃなかった!」


 サブナックは槍を静かに構えた。


 今まで肩へ担いでいた槍先が、真っ直ぐバトラスを捉える。


 その姿には隙がなかった。


 まるで一本の槍そのもの。


「構えが……変わった。」


 グレイが血を拭いながら呟く。


「今までは試していただけか。」


 サブナックは答えない。


 ただ一歩踏み出す。


 それだけで空気が張り詰めた。


「バトラス!」


 意識を取り戻したサラが叫ぶ。


「時間を!」


 バトラスは頷く。


「ああ。」


 ケルベロスを握り直し、真正面から踏み込む。


「はぁぁぁぁっ!!」


 重剣が唸りを上げる。


 だが。


 サブナックは最小限の動きで穂先を合わせた。


 ――ガギィィン!!


 火花が散る。


 ケルベロスは弾かれ、バトラスの体勢が僅かに崩れる。


 その一瞬。


 槍が消えた。


「まただ!」


 グレイが叫ぶ。


「左!」


 バトラスは反射的に身体を捻る。


 しかし遅い。


 ――ドッ!!


 肩口を槍が貫いた。


「ぐっ!」


 鮮血が飛び散る。


 それでもバトラスは倒れない。


 歯を食いしばり、ケルベロスを地面へ突き立てて踏み止まる。


 その姿を見ながら、グレイは目を閉じた。


「違う……。」


「瞬間移動じゃない。」


「転移でもない、俺の影転移とも違う。」


「なら何だ。」


 サラも静かに目を閉じる。


 魔力の流れを探る。


「……ありません。」


「何?」


「転移魔法なら、必ず魔力が流れます。」


「でも。」


「何も感じません。」


 グレイの瞳が鋭くなる。


「魔法じゃない。」


「じゃあ、物理現象か。」


 彼は石畳を見る。


 傷。


 瓦礫。


 槍痕。


 そして。


 バトラスの傷口。


「……。」


 無言で近づき、裂けた鎧を見る。


「どうした。」


 バトラスが息を荒げながら問う。


 グレイは傷口へ指を近づけた。


「浅い。」


「え?」


「見た目より浅い。」


「槍が深く入ってない。」


 サラも傷を見る。


「確かに……。」


 グレイは小さく笑った。


「そうか。」


「刺してるんじゃない。」


 サブナックが初めて口を開く。


「ほう。」


 その一言だけだった。


 だが。


 グレイはその反応を見逃さなかった。


「当たりか。」


 血に濡れた口元が吊り上がる。


「お兄さん。」


「もう少しだけ時間をくれ。」


「あと一つ。」


「あと一つ分かれば、あいつの槍は読める。」


 サブナックは静かに槍を構え直す。


 その真紅の瞳には、先ほどまでにはなかった僅かな興味が宿っていた。


「面白い。」


「ならば見抜いてみせよ。」


「我が槍の理を。」


 サブナックは静かに槍を下ろした。


 構えは崩さない。


 だが、すぐには踏み込まない。


 武人は、相手が考える時間すら戦いの一部と考えていた。


 グレイは血に濡れた口元を拭う。


「ありがとう。」


「少し時間を稼げた。」


 サブナックは何も答えない。


 バトラスは肩で息をしながら低く言う。


「何が見えた。」


 グレイは石畳へ視線を落とした。


「傷。」


「全部、傷なんだ。」


「傷?」


 サラも周囲を見る。


 砕けた石畳。


 裂けた柱。


 抉られた壁。


 そしてバトラスの鎧。


 そこに残る傷跡。


「全部。」


「向きが違う。」


 バトラスが眉をひそめる。


「どういう意味だ。」


「普通の槍なら。」


 グレイは地面へ指で一本の線を描いた。


「こう進む。」


 一直線。


「だから傷も同じ方向になる。」


 さらに線を増やす。


「でも。」


「こいつの傷は違う。」


 縦。


 横。


 斜め。


 角度がまるで一致しない。


「一本の槍でついた傷じゃない。」


 サラが静かに呟く。


「……複数方向から攻撃されている。」


「そう。」


 グレイは頷いた。


「でも槍は一本しかない。」


「だから矛盾してる。」


 沈黙。


 誰も口を開かない。


 その静寂を破ったのは、サブナックだった。


「良い目だ。」


 短い賞賛。


 それだけだった。


 グレイは笑う。


「褒められた。」


「嬉しいね。」


 だが次の瞬間、その笑みは消えた。


「でも。」


「まだ足りない。」


「一本なのに。」


「複数方向。」


「どうやって?」


 何度考えても繋がらない。


 その時。


 サラが静かに口を開いた。


「グレイ。」


「これを。」


 彼女は折れた槍の欠片を差し出した。


 先ほどバトラスの鎧を掠めた際に砕けた、ごく小さな破片だった。


 グレイは受け取る。


「……熱い。」


「はい。」


 サラは頷く。


「戦いが始まってから、かなり時間が経っています。」


「それなのに。」


「まだ冷えていません。」


 グレイの表情が変わる。


「熱……。」


「違う。」


「待て。」


 彼は破片を太陽へかざした。


 その表面に映る景色が、僅かに歪む。


「……歪んでる。」


 サラも覗き込む。


「空間が。」


「ええ。」


 その一言で。


 グレイの思考が、一気に繋がった。


「そうか。」


 「槍が消えてるんじゃない。」


 「槍そのものでもない。」


 彼はゆっくりとサブナックを見る。


 そして初めて、自信を持って言った。


「お兄さん。」


「ようやく尻尾が見えた。」


 サブナックの口元が、わずかに上がる。


 それは初めて見せた、武人としての笑みだった。


「ならば。」


「続きを見せよう。」


 槍が、再び静かに持ち上がった。


 静寂。


 風だけが修道院の中庭に吹き抜ける。


 グレイは血を吐きながら肩を竦めた。


「いやぁ。」


「困ったねぇ。」


「せっかく尻尾が見えたと思ったら、今度は尻尾振って『追いかけてこい』だってさ。」


 バトラスが苦笑する。


「こんな時まで喋る余裕があるのか。」


「余裕?」


 グレイは眉を上げた。


「あるわけないだろ。」


「怖くて膝が笑ってるよ。」


 そう言いながら短剣を逆手に持つ。


「でもさ。」


「黙って死ぬより、喋って死ぬ方が性に合ってる。」


 サラがため息をつく。


「……不吉なことを。」


「お嬢さん。」


 グレイは笑う。


「俺は死なないよ。」


「今日は、お兄さんに盾役を押し付ける予定だから。」


「勝手に決めるな。」


 バトラスが吐き捨てる。


「ははっ。」


「ちゃんと褒めてるんだよ。」


「お兄さんほど頑丈な人、そうそういない。」


 そのやり取りを、サブナックは黙って見ていた。


 やがて静かに口を開く。


「恐怖を笑いへ変えるか。」


「悪くない。」


「武人向きの胆力だ。」


 グレイは肩をすくめる。


「褒めても何も出ないよ。」


「せいぜい後で酒を一杯奢るくらいかな。」


「勝てば、だが。」


 サブナックが槍を構える。


「勝てばね。」


 グレイは口元を吊り上げた。


「だから勝つために考える。」


「武人さん。」


「一つ聞いていい?」


 サブナックは答えない。


「答えないよね。」


「そういう堅物だと思ってた。」


 グレイは石畳を見回しながら続ける。


「でもさ、不思議なんだ。」


「最初からその構えを使えば、俺たちは十回くらい死んでた。」


 サブナックの瞳がわずかに動く。


「なのに使わなかった。」


「いや。」


「使えなかった。」


 沈黙。


 グレイは笑みを深くする。


「図星か。」


 バトラスが振り向く。


「何が言いたい。」


「まだ仮説だけどね。」


 グレイはサブナックから目を離さない。



 第十三話へ続く

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