槍の侯爵《上》
山道を吹き抜ける風が、木々を大きく揺らした。
三人は北へ続く一本道を歩いていた。
先頭はバトラス。
その背中を、グレイとサラが追う。
ルルたちのいた修道院を出てから、まだそれほど時間は経っていない。
サブナックも、この道の先にいるはずだった。
「そんなに急がなくても逃げやしないよ、お兄さん。」
グレイが軽く笑う。
「相手は七侯爵だ。」
「だから?」
「逃げるような性格には見えなかった。」
バトラスは答えない。
ただ歩幅だけが少し広がる。
「ほら。」
「図星だった。」
「急いでるんじゃなくて、早く斬りたいんでしょ。」
「……。」
「否定しないんだ。」
グレイは肩を竦めた。
「分かりやすいなぁ。」
サラが小さく微笑む。
「お二人とも、元気ですね。」
「お嬢さん、それ褒めてる?」
「はい。」
「それなら素直に受け取っておこう。」
バトラスだけは前を見たままだった。
「遊びに行くわけではない。」
「知ってる知ってる。」
グレイは苦笑する。
「だから空気が重くならないように喋ってるんだよ。」
その言葉に、バトラスは何も返さなかった。
沈黙が続く。
しばらく歩いたところで、サラが足を止めた。
「……静かです。」
二人も立ち止まる。
確かに静かだった。
風は吹いている。
枝葉も揺れている。
だが、それだけだ。
鳥の鳴き声が一つも聞こえない。
虫の羽音すらない。
グレイは森を見回した。
「確かに変だね。」
「鳥なら人が近付けば飛ぶ。」
「でも鳴き声くらいは聞こえる。」
「何かがいるのでしょうか。」
サラの問いに、グレイは首を横へ振る。
「いる、というより。」
彼は空を見上げた。
「近寄りたくない何かが、この先にある。」
バトラスは短く言う。
「サブナックか。」
「その可能性は高い。」
グレイは珍しく笑わなかった。
「動物は人間より敏感だからね。」
「危険を感じたら、先に姿を消す。」
再び歩き出す。
山道を曲がった先で、視界が開けた。
森の向こう。
夕日に照らされる石造りの建物。
古びた尖塔。
高い塀。
北の修道院だった。
しかし。
その静けさは、あまりにも不自然だった。
人の姿が、一人も見えない。
バトラスはケルベロスの柄へ手を添える。
「着いたか。」
グレイは細く息を吐いた。
「いや。」
「ここからだよ。」
グレイが顎で修道院を示す。
バトラスも視線を向けた。
北の修道院は、山肌に寄り添うように建っていた。
夕日に照らされた石壁は古く、それでも荘厳な威厳を失ってはいない。
だが。
その周囲の景色だけが、わずかに揺らいでいた。
熱気でもない。
蜃気楼でもない。
空間そのものが、水面のように波打っている。
サラが静かに呟く。
「……結界です。」
バトラスは目を細めた。
「あれが。」
「はい。」
「かなり古いものですが、まだ機能しています。」
グレイが笑う。
「つまり。」
「まだ中には入れてないってことだ。」
バトラスは僅かに息を吐いた。
「間に合うか。」
「多分ね。」
グレイは肩を竦める。
「七侯爵が正面から来て、まだ壊せてない。」
「結構頑丈なんじゃない?」
その時だった。
――ドン。
腹の底へ響く重低音。
結界全体へ波紋が走る。
透明だった膜が一瞬だけ蒼白く輝いた。
三人は同時に足を止める。
「今のは。」
サラが結界を見つめる。
「攻撃されています。」
――ドォンッ。
二度目。
今度は先ほどより強い。
結界の表面へ、蜘蛛の巣のような光の亀裂が一瞬だけ走った。
しかし次の瞬間には修復される。
グレイの口元から笑みが消える。
「面白い。」
「壊れてない。」
「でも修復も追いつかなくなってきてる。」
バトラスは剣の柄を握る。
「破られるまで時間は。」
サラは結界を見つめたまま答えた。
「……分かりません。」
「ですが。」
「長くはもちません。」
再び轟音。
今度は聖堂の尖塔から白い鳥が一斉に飛び立つ。
結界が激しく揺らぎ、空気そのものが震えた。
グレイが前へ出る。
「行こう、お兄さん。」
「今ならまだ。」
「奴は結界を相手にしてる。」
「こっちには気付いてない。」
バトラスは頷く。
「ああ。」
三人は一斉に駆け出した。
修道院の門へ近づくほど、結界の揺らぎは激しさを増していく。
そして、あと数十歩という距離まで迫った、その瞬間――
――パキッ。
ガラスへ小さなひびが入るような音が、山全体へ静かに響いた。
三人は思わず足を止める。
サラの表情が変わる。
「……まずい。」
「限界です。」
サラの言葉が終わるより早かった。
――パリン。
澄んだ音が、山中へ響く。
小さな音だった。
それでも。
結界全体へ一本の亀裂が走る。
その亀裂は瞬く間に広がり――
パリンッ!!
光の壁が砕け散った。
無数の光の欠片が夕焼けの中へ舞い上がる。
同時に、今まで閉ざされていた気配が一気に溢れ出した。
重い。
息苦しいほどの圧力。
まるで山そのものが三人を見下ろしているようだった。
「これが……七侯爵。」
サラが小さく息を呑む。
バトラスは何も答えない。
ケルベロスを静かに抜いた。
グレイだけが目を細める。
「お兄さん。」
「分かってる。」
「違う違う。」
グレイは苦笑した。
「突っ込む前に、一回見る。」
「癖になってるね。」
バトラスは無言のまま修道院を見据えた。
やがて。
門の石造りの大扉が、ゆっくりと内側から開いた。
軋む音が静寂を裂く。
暗闇の中から、一人の男が姿を現した。
黒い外套。
その手には、身の丈を超える長槍。
穂先は血のように赤黒く染まっている。
男は三人を見もしない。
そのまま空を見上げ、小さく舌打ちした。
「……ここでもない。」
低く、感情のない声。
「ならば。」
「東か。」
そう呟き、階段を下り始める。
バトラスは剣を構えた。
「待て。」
男の足が止まる。
ゆっくりと振り返る。
初めて、その真紅の瞳が三人を捉えた。
殺気。
いや。
それよりも冷たい何か。
男はバトラスを一瞥したあと、興味を失ったように視線を逸らした。
「退け。」
「今は貴様らに構っている時間はない。」
グレイが肩を竦める。
「ずいぶん失礼だなぁ。」
「こっちは追いかけてきたのに。」
サブナックは答えない。
ただ一歩だけ前へ出る。
その瞬間。
グレイの笑みが消えた。
「お兄さん。」
「まだ。」
「剣は振るうな。」
バトラスが眉をひそめる。
「何だ。」
グレイはサブナックの槍を見つめたまま、小さく呟いた。
「……何かがおかしい。」
バトラスは剣を構えたまま問い返す。
「何がだ。」
「分からない。」
グレイは即答した。
「だから気持ち悪い。」
視線は一度もサブナックから逸らさない。
槍。
立ち姿。
重心。
呼吸。
そのすべてを観察していた。
「槍使いなら。」
「普通は穂先を相手へ向ける。」
「でも、あいつは違う。」
サブナックは槍を肩へ担ぐように持っている。
隙だらけだった。
まるで構える必要すらないと言わんばかりに。
「舐められてるだけじゃないか。」
バトラスが言う。
グレイは首を横へ振った。
「違う。」
「俺なら、あんな持ち方はしない。」
「何故です。」
サラが尋ねる。
「長槍は間合いが命だ。」
「相手へ穂先を向けて初めて意味がある。」
「でも。」
グレイは目を細めた。
「あいつには、その必要がない。」
沈黙。
その言葉に、バトラスも僅かに眉を寄せる。
「つまり。」
「槍を突き出す必要がないってこと?」
グレイは独り言のように続けた。
「いや……違う。」
「届く?」
「飛ぶ?」
「いや、それならもっと構える。」
考えを否定していく。
「違うな。」
「全部違う。」
その時だった。
サブナックが初めて口を開く。
「終わったか。」
三人の視線が集まる。
サブナックは面倒そうにため息を吐いた。
「観察は。」
「弱者ほど長い。」
グレイは笑った。
「褒め言葉として受け取っておくよ。」
「お兄さん。」
「まだ斬るな。」
バトラスは一歩前へ出ようとしていた足を止める。
「理由は。」
「まだ見えてない。」
グレイの笑みは消えていた。
「見えない相手に飛び込むほど、俺は馬鹿じゃない。」
サブナックは槍の石突きを、静かに地面へ突いた。
――コン。
乾いた音が響く。
その瞬間。
グレイの瞳が大きく見開かれた。
「っ!」
何かを感じ取った。
だが、その正体までは掴めない。
次の瞬間――
サブナックの姿が、ふっと消えた。
「右だ!」
グレイの声と同時に、バトラスが身体を捻る。
――ギィィンッ!!
耳を裂く金属音。
虚空から現れた槍が、ケルベロスを弾いた。
衝撃で石畳が砕け散る。
バトラスは後方へ滑りながらも体勢を崩さない。
「……。」
サブナックは十数歩先に立っていた。
まるで最初からそこにいたように。
グレイは笑みを消す。
「姿を消したわけじゃない。」
「空間……いや、違う。」
「まだ分からないか。」
低く響く声。
サブナックは静かに槍を下ろした。
「人の知恵で見抜けぬなら、それまでだ。」
挑発でも、自慢でもない。
ただ事実を述べる口調だった。
バトラスは剣を構える。
「貴様は何者だ。」
サブナックは一瞬だけ目を閉じる。
そして静かに答えた。
「我が名はサブナック。」
「七侯爵が一角。」
「槍を司る侯爵、そして貴様ら人間たちからは悪魔と呼ばれている。」
その一言に、空気が凍り付く。
サラが思わず息を呑んだ。
「悪魔……。」
「本当に存在していたのですね。」
サブナックは頷きもしない。
「人は己が理解できぬものを伝承と呼ぶ。」
「それだけのこと。」
グレイが小さく笑った。
「なるほど。」
「じゃあ、お兄さんが人間相手の間合いで戦おうとしても通じないわけだ。」
サブナックは初めてグレイを見る。
その視線には、わずかな興味だけが宿っていた。
「貴様。」
「目は悪くない。」
「だが。」
サブナックは槍を静かに構える。
その所作には一切の無駄がない。
美しいほど洗練されていた。
「武とは、見て学ぶものではない。」
「命を賭して知るものだ。」
静かに一歩踏み出す。
それだけで空気が張り詰める。
バトラスもケルベロスを構え直した。
「来い。」
短い一言。
それだけで十分だった。
サブナックの真紅の瞳が細くなる。
「望むところだ。」
次の瞬間、槍が消えた。
「来る!」
グレイの叫び。
しかし、その警告より速く。
――ドゴォォン!!
バトラスの真横で石畳が爆ぜた。
土煙が舞い上がる。
槍は見えない。
ただ、地面だけが抉れている。
「どこだ!」
バトラスが叫ぶ。
「上!」
サラの声。
反射的に見上げる。
空には誰もいない。
「違う!」
グレイが首を振る。
「見せかけだ!」
その瞬間。
――ガンッ!!
鈍い衝撃がバトラスの脇腹を襲った。
「ぐっ……!」
甲冑が大きく凹み、身体が十数メートル吹き飛ぶ。
石壁へ叩きつけられ、壁面に亀裂が走る。
「お兄さん!」
グレイが影へ潜る。
同時にサラが魔法陣を展開した。
「《氷結》!」
無数の氷柱がサブナックを囲む。
しかし。
サブナックは一歩も動かない。
――ズバァッ!!
空間の至る所から槍撃が走る。
氷柱が一瞬で粉砕された。
「……っ!」
サラの肩が裂ける。
「サラ!」
グレイが抱き寄せる。
その背後へ。
何もない空間から槍が現れた。
「しまっ――」
ドンッ!!
穂先ではない。
石突きだった。
グレイは背中から吹き飛ばされ、石段を転げ落ちる。
息ができない。
肺から空気が強制的に吐き出された。
「げほっ……!」
それでも立ち上がる。
サラも杖を支えに立とうとする。
サブナックは槍を肩へ担ぎ直した。
「遅い。」
その一言だけだった。
バトラスが血を吐きながら立ち上がる。
左腕は痺れ、力が入らない。
肋骨も数本折れている。
それでも剣だけは離さない。
「まだ……終わっていない。」
サブナックは静かに頷いた。
「その気概は見事だ。」
「だが。」
「武とは、気概だけでは届かぬ。」
その言葉と同時に、槍がゆっくりと持ち上がる。
速くはない。
誰の目にも映る動きだった。
「来る!」
バトラスはケルベロスを正眼に構える。
次の瞬間。
サブナックの姿が霞んだ。
――ギィィンッ!!
激しい衝撃。
バトラスは咄嗟に剣で受け止めた。
しかし。
「なっ……!」
穂先は目の前にない。
槍は、背後から振り抜かれていた。
鎧ごと背中を抉られ、鮮血が舞う。
バトラスは膝をつく。
「お兄さん!」
グレイが飛び出す。
影を踏み、サブナックの死角へ滑り込む。
短剣が喉元を狙う。
――届く。
そう確信した瞬間。
槍の石突きが、腹部へめり込んだ。
「がはっ!」
胃の中身を吐き出しながら、グレイは地面を転がる。
「速い……違う。」
血を吐きながら呟く。
「速いんじゃない……。」
答えは出ない。
まだ届かない。
サラは震える手で魔法陣を描く。
「《氷結陣》!」
白い光が石畳を走る。
一瞬でサブナックの足元を氷が覆う。
だが。
サブナックは足を止めない。
氷を踏み砕きながら、一歩前へ出る。
「良い術だ。」
静かな声だった。
「されど。」
「武を止めるには足りぬ。」
槍が薙ぐ。
衝撃だけで氷が砕け散り、サラの身体が宙を舞った。
石柱へ激突する。
「サラ!」
グレイが叫ぶ。
しかし返事はない。
バトラスは剣を杖代わりに立ち上がる。
腕は震え、視界も霞む。
それでも前へ出る。
サブナックはその姿を見つめ、静かに口を開いた。
「退かぬか。」
「退けん。」
短い返答だった。
サブナックは目を閉じる。
「ならば。」
「武人として応えよう。」
槍を構える。
その構えは先程までとは違っていた。
初めて。
真正面からバトラスへ穂先を向ける。
その瞬間。
グレイの表情が変わる。
「……まずい。」
「お兄さん!」
「今までのは、本気じゃなかった!」
サブナックは槍を静かに構えた。
今まで肩へ担いでいた槍先が、真っ直ぐバトラスを捉える。
その姿には隙がなかった。
まるで一本の槍そのもの。
「構えが……変わった。」
グレイが血を拭いながら呟く。
「今までは試していただけか。」
サブナックは答えない。
ただ一歩踏み出す。
それだけで空気が張り詰めた。
「バトラス!」
意識を取り戻したサラが叫ぶ。
「時間を!」
バトラスは頷く。
「ああ。」
ケルベロスを握り直し、真正面から踏み込む。
「はぁぁぁぁっ!!」
重剣が唸りを上げる。
だが。
サブナックは最小限の動きで穂先を合わせた。
――ガギィィン!!
火花が散る。
ケルベロスは弾かれ、バトラスの体勢が僅かに崩れる。
その一瞬。
槍が消えた。
「まただ!」
グレイが叫ぶ。
「左!」
バトラスは反射的に身体を捻る。
しかし遅い。
――ドッ!!
肩口を槍が貫いた。
「ぐっ!」
鮮血が飛び散る。
それでもバトラスは倒れない。
歯を食いしばり、ケルベロスを地面へ突き立てて踏み止まる。
その姿を見ながら、グレイは目を閉じた。
「違う……。」
「瞬間移動じゃない。」
「転移でもない、俺の影転移とも違う。」
「なら何だ。」
サラも静かに目を閉じる。
魔力の流れを探る。
「……ありません。」
「何?」
「転移魔法なら、必ず魔力が流れます。」
「でも。」
「何も感じません。」
グレイの瞳が鋭くなる。
「魔法じゃない。」
「じゃあ、物理現象か。」
彼は石畳を見る。
傷。
瓦礫。
槍痕。
そして。
バトラスの傷口。
「……。」
無言で近づき、裂けた鎧を見る。
「どうした。」
バトラスが息を荒げながら問う。
グレイは傷口へ指を近づけた。
「浅い。」
「え?」
「見た目より浅い。」
「槍が深く入ってない。」
サラも傷を見る。
「確かに……。」
グレイは小さく笑った。
「そうか。」
「刺してるんじゃない。」
サブナックが初めて口を開く。
「ほう。」
その一言だけだった。
だが。
グレイはその反応を見逃さなかった。
「当たりか。」
血に濡れた口元が吊り上がる。
「お兄さん。」
「もう少しだけ時間をくれ。」
「あと一つ。」
「あと一つ分かれば、あいつの槍は読める。」
サブナックは静かに槍を構え直す。
その真紅の瞳には、先ほどまでにはなかった僅かな興味が宿っていた。
「面白い。」
「ならば見抜いてみせよ。」
「我が槍の理を。」
サブナックは静かに槍を下ろした。
構えは崩さない。
だが、すぐには踏み込まない。
武人は、相手が考える時間すら戦いの一部と考えていた。
グレイは血に濡れた口元を拭う。
「ありがとう。」
「少し時間を稼げた。」
サブナックは何も答えない。
バトラスは肩で息をしながら低く言う。
「何が見えた。」
グレイは石畳へ視線を落とした。
「傷。」
「全部、傷なんだ。」
「傷?」
サラも周囲を見る。
砕けた石畳。
裂けた柱。
抉られた壁。
そしてバトラスの鎧。
そこに残る傷跡。
「全部。」
「向きが違う。」
バトラスが眉をひそめる。
「どういう意味だ。」
「普通の槍なら。」
グレイは地面へ指で一本の線を描いた。
「こう進む。」
一直線。
「だから傷も同じ方向になる。」
さらに線を増やす。
「でも。」
「こいつの傷は違う。」
縦。
横。
斜め。
角度がまるで一致しない。
「一本の槍でついた傷じゃない。」
サラが静かに呟く。
「……複数方向から攻撃されている。」
「そう。」
グレイは頷いた。
「でも槍は一本しかない。」
「だから矛盾してる。」
沈黙。
誰も口を開かない。
その静寂を破ったのは、サブナックだった。
「良い目だ。」
短い賞賛。
それだけだった。
グレイは笑う。
「褒められた。」
「嬉しいね。」
だが次の瞬間、その笑みは消えた。
「でも。」
「まだ足りない。」
「一本なのに。」
「複数方向。」
「どうやって?」
何度考えても繋がらない。
その時。
サラが静かに口を開いた。
「グレイ。」
「これを。」
彼女は折れた槍の欠片を差し出した。
先ほどバトラスの鎧を掠めた際に砕けた、ごく小さな破片だった。
グレイは受け取る。
「……熱い。」
「はい。」
サラは頷く。
「戦いが始まってから、かなり時間が経っています。」
「それなのに。」
「まだ冷えていません。」
グレイの表情が変わる。
「熱……。」
「違う。」
「待て。」
彼は破片を太陽へかざした。
その表面に映る景色が、僅かに歪む。
「……歪んでる。」
サラも覗き込む。
「空間が。」
「ええ。」
その一言で。
グレイの思考が、一気に繋がった。
「そうか。」
「槍が消えてるんじゃない。」
「槍そのものでもない。」
彼はゆっくりとサブナックを見る。
そして初めて、自信を持って言った。
「お兄さん。」
「ようやく尻尾が見えた。」
サブナックの口元が、わずかに上がる。
それは初めて見せた、武人としての笑みだった。
「ならば。」
「続きを見せよう。」
槍が、再び静かに持ち上がった。
静寂。
風だけが修道院の中庭に吹き抜ける。
グレイは血を吐きながら肩を竦めた。
「いやぁ。」
「困ったねぇ。」
「せっかく尻尾が見えたと思ったら、今度は尻尾振って『追いかけてこい』だってさ。」
バトラスが苦笑する。
「こんな時まで喋る余裕があるのか。」
「余裕?」
グレイは眉を上げた。
「あるわけないだろ。」
「怖くて膝が笑ってるよ。」
そう言いながら短剣を逆手に持つ。
「でもさ。」
「黙って死ぬより、喋って死ぬ方が性に合ってる。」
サラがため息をつく。
「……不吉なことを。」
「お嬢さん。」
グレイは笑う。
「俺は死なないよ。」
「今日は、お兄さんに盾役を押し付ける予定だから。」
「勝手に決めるな。」
バトラスが吐き捨てる。
「ははっ。」
「ちゃんと褒めてるんだよ。」
「お兄さんほど頑丈な人、そうそういない。」
そのやり取りを、サブナックは黙って見ていた。
やがて静かに口を開く。
「恐怖を笑いへ変えるか。」
「悪くない。」
「武人向きの胆力だ。」
グレイは肩をすくめる。
「褒めても何も出ないよ。」
「せいぜい後で酒を一杯奢るくらいかな。」
「勝てば、だが。」
サブナックが槍を構える。
「勝てばね。」
グレイは口元を吊り上げた。
「だから勝つために考える。」
「武人さん。」
「一つ聞いていい?」
サブナックは答えない。
「答えないよね。」
「そういう堅物だと思ってた。」
グレイは石畳を見回しながら続ける。
「でもさ、不思議なんだ。」
「最初からその構えを使えば、俺たちは十回くらい死んでた。」
サブナックの瞳がわずかに動く。
「なのに使わなかった。」
「いや。」
「使えなかった。」
沈黙。
グレイは笑みを深くする。
「図星か。」
バトラスが振り向く。
「何が言いたい。」
「まだ仮説だけどね。」
グレイはサブナックから目を離さない。
第十三話へ続く




