第95話「最後の夜」
その夜、エレナはルシアンの執務室に行った。
仕事が終わった後の、静かな時間。二人で並んで、いつものように過ごした。
エレナは、ルシアンを見た。
書類を読んでいる横顔。黒い髪が蝋燭の光に照らされている。
この一年半で、何度この横顔を見たか、数えられない。
好きだ、とエレナは思った。
こんなに好きなのに——だからこそ、考えてしまう。
「ルシアン」
「何だ」
「一つ、聞いていいですか」
「ああ」
「もし私がいなければ——あなたは、セルディアの王女と婚約できますか」
ルシアンが手を止めた。
「何を聞いている」
「答えてください」
「できない」
「なぜ」
「お前がいなくても、いても——あの婚約を受ける気はない」
「それは本当に?」
「本当だ」
エレナは少し間を置いた。
「……私が姿を消しても?」
ルシアンが顔を上げた。
「エレナ」
「仮定の話です」
「仮定でも——そういうことを言うな」
「なぜですか」
「お前が消えた後のことを、考えたくない」
「でも、陛下は——」
「兄上のことは、私が対処する」
「どうやって」
「時間をかけて、説得する。外交上の問題も、婚姻以外の方法で解決できる可能性を示す。それを積み上げていけば、兄上も変わる」
「……どのくらいかかりますか」
「分からない。でも——諦めない」
エレナは、ルシアンを見た。
その目が、真剣だった。迷いがなかった。
(この人は本当に、そう思っている)
でも——エレナの胸の中で、何かが決まりかけていた。
国王の言葉。王妃の言葉。ルシアンを愛しているからこそ——ルシアンに重さを背負わせたくない。
「……今夜は、一緒にいてもいいですか」
「何を今さら」
「聞きたかっただけです」
ルシアンが書類を閉じた。
「いろ。ずっといろ」
エレナは、ルシアンの隣に座った。
その夜は、仕事の話も、国王の話も、何もしなかった。
ただ並んで、夜の時間を過ごした。
ルシアンが本を読んだ。エレナも本を開いたが、文字が頭に入ってこなかった。
深夜になって、ルシアンが言った。
「今夜は——」
「帰ります」
「なぜ」
「少し、疲れたので」
嘘だった。疲れてはいなかった。
でも——このままここにいれば、離れられなくなる。それが、分かっていた。
「おやすみなさい、ルシアン」
エレナは立ち上がり、ルシアンを見た。
その顔を、記憶に刻んだ。
蝋燭の光に照らされた横顔。黒い髪。銀灰色の目。
「……おやすみ」
エレナは部屋を出た。
廊下で、一度だけ振り返った。
閉まった扉を見た。
(ごめんなさい)
心の中で言った。
(好きです。ずっと、好きです)
それから——歩き出した。




