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黒薔薇の檻  作者: 麗夜
95/150

第95話「最後の夜」

その夜、エレナはルシアンの執務室に行った。

仕事が終わった後の、静かな時間。二人で並んで、いつものように過ごした。

エレナは、ルシアンを見た。

書類を読んでいる横顔。黒い髪が蝋燭の光に照らされている。

この一年半で、何度この横顔を見たか、数えられない。

好きだ、とエレナは思った。

こんなに好きなのに——だからこそ、考えてしまう。

「ルシアン」

「何だ」

「一つ、聞いていいですか」

「ああ」

「もし私がいなければ——あなたは、セルディアの王女と婚約できますか」

ルシアンが手を止めた。

「何を聞いている」

「答えてください」

「できない」

「なぜ」

「お前がいなくても、いても——あの婚約を受ける気はない」

「それは本当に?」

「本当だ」

エレナは少し間を置いた。

「……私が姿を消しても?」

ルシアンが顔を上げた。

「エレナ」

「仮定の話です」

「仮定でも——そういうことを言うな」

「なぜですか」

「お前が消えた後のことを、考えたくない」

「でも、陛下は——」

「兄上のことは、私が対処する」

「どうやって」

「時間をかけて、説得する。外交上の問題も、婚姻以外の方法で解決できる可能性を示す。それを積み上げていけば、兄上も変わる」

「……どのくらいかかりますか」

「分からない。でも——諦めない」

エレナは、ルシアンを見た。

その目が、真剣だった。迷いがなかった。

(この人は本当に、そう思っている)

でも——エレナの胸の中で、何かが決まりかけていた。

国王の言葉。王妃の言葉。ルシアンを愛しているからこそ——ルシアンに重さを背負わせたくない。

「……今夜は、一緒にいてもいいですか」

「何を今さら」

「聞きたかっただけです」

ルシアンが書類を閉じた。

「いろ。ずっといろ」

エレナは、ルシアンの隣に座った。

その夜は、仕事の話も、国王の話も、何もしなかった。

ただ並んで、夜の時間を過ごした。

ルシアンが本を読んだ。エレナも本を開いたが、文字が頭に入ってこなかった。

深夜になって、ルシアンが言った。

「今夜は——」

「帰ります」

「なぜ」

「少し、疲れたので」

嘘だった。疲れてはいなかった。

でも——このままここにいれば、離れられなくなる。それが、分かっていた。

「おやすみなさい、ルシアン」

エレナは立ち上がり、ルシアンを見た。

その顔を、記憶に刻んだ。

蝋燭の光に照らされた横顔。黒い髪。銀灰色の目。

「……おやすみ」

エレナは部屋を出た。

廊下で、一度だけ振り返った。

閉まった扉を見た。

(ごめんなさい)

心の中で言った。

(好きです。ずっと、好きです)

それから——歩き出した。

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