第9話「執務室の男」
最初の一週間、エレナはとにかく覚えることに必死だった。
王宮の構造。廊下の配置、各部屋の用途、使用していい場所と入ってはいけない場所。侍女としての礼儀作法。書類の分類と保管方法。来客の記録のつけ方。
アグネスは厳しかったが、公平だった。間違えれば指摘し、正しくできれば「よろしい」と短く言った。それ以上も、それ以下もない。エレナはその明快さが、嫌いではなかった。
マリアを中心とした上級侍女たちは、エレナを快く思っていなかった。
それは言葉ではなく、行動で示された。エレナが整理した書類が知らない間に順番を変えられていた。エレナが使うはずだった備品が突然なくなっていた。廊下ですれ違うとき、エレナだけが聞こえないふりをされた。
エレナは気にしなかった。
気にするふりも、しなかった。
ルシアンとの接触は、最初の数日は最低限だった。
エレナが書類を執務室に届ける。ルシアンは受け取り、確認し、短い指示を出す。視線を向けることもない。余計な言葉はない。
それで良かった。そのくらいの距離が、丁度よかった。
変わったのは、七日目の夜だった。
夜遅い時間に書類を届けに執務室に向かうと、廊下の窓の外で月が出ていた。満月に近い、白い月が、王宮の庭を照らしている。
執務室の扉をノックした。
「入れ」
ルシアンは窓際に立っていた。庭の方向を見ている。振り返らない。
エレナは書類をテーブルの所定の場所に置いて、退室しようとした。
「王宮の生活には慣れたか」
振り返らないまま、声だけが来た。
エレナは少し驚いた。こちらに向かって、話しかけてくる——それが、初めてのことだったから。
「慣れてはいませんが、やっていけています」
「侍女たちとのいざこざは」
エレナは一瞬止まった。気づいていたのか。
「ご心配なく。私、負けず嫌いなので」
ルシアンがわずかに振り返った。口元に、何かが浮かんだ。笑みと呼ぶには薄すぎる。でも確かに、人間的な表情だった。
「そうだな。お前はそういう人間だ」
肯定なのか、批評なのか分からない言い方だった。
「……怒らせましたか」
「いいや。むしろ」
男は言葉を止めた。また窓の外を見る。
「ここに来て、よかったと思うか」
エレナは考えた。借金は消えた。住む場所と食べ物がある。仕事は多いが、内容は嫌いではない。でも、この質問はそういう現実的なことを聞いているのではない——エレナはそう直感した。
「まだ分かりません。でも、この場所には意味があると感じています」
「なぜ」
「あなたが、変わりたいと思っている気がするから」
沈黙が落ちた。長い沈黙だった。
ルシアンはゆっくりと振り返った。その目に、今まで見たことのない色があった。警戒でも、命令でも、分析でもない——何か、剥き出しの感情。
「……お前は、怖いことを言う」
声が、かすかに掠れていた。
エレナはその視線を受けながら、胸の中で何かが変わっていくのを感じた。
(まずい)
自分に言い聞かせた。
(この人に、心を開いてはいけない)
でも心というものは、警告を聞かない。




