第10話「マリアの罠」
二週間が経った頃、最初の試練が来た。
その日、エレナは重要な書類を届ける役目を任されていた。隣国との通商交渉に関わる文書で、午前中に王宮の外交担当部署に届けなければならない。
書類は前日の夜に執務室から受け取り、エレナの部屋の机の上に置いておいた。
翌朝、書類がなかった。
エレナは部屋中を探した。机の上、机の引き出し、床の下、ベッドの周り——どこにもない。
心臓が嫌な音を立て始めた。
(誰かが、持っていった)
心当たりはある。でも今は推測している時間はない。
エレナは動いた。まず書類が通った経路を逆にたどる。執務室、廊下、自分の部屋——廊下の隅に、小さな紙切れが落ちていた。書類の端から破れたらしい、小さな紙だ。それを手がかりに、視線を上げた。
廊下の突き当たりに、物置の扉がある。
開けると、書類の束があった。
エレナは書類を確認した。全て揃っている。乱れてもいない。ただ、この物置に移されていただけだ。
時間を確認した。約束の時間まで、あと三十分。走れば間に合う。
エレナは走った。
王宮の廊下を、侍女としての礼儀を少し外れる速度で歩いた——正確には、早歩きと走りの中間くらいの速度で。すれ違う近衛兵たちが不思議そうな目で見たが、止めはしなかった。
約束の時間の五分前に、外交担当部署の扉をノックした。
担当官は驚いた顔をした。
「ギリギリでしたね」
「申し訳ありません。少し手間取りました」
書類を渡して、廊下に出た。
壁に背中をつけて、息をついた。
間に合った。
「お疲れ様」
聞き覚えのある声がして顔を上げた。マリアが廊下の柱の陰に立っていた。微笑んでいる。いつもの、笑顔の下に刃のある微笑みだ。
「書類を動かされたのが分かりましたか。早いですね」
隠す気もないらしい。
エレナはマリアを見た。怒鳴りたい気持ちは、ある。でもここで感情的になっても何の意味もない。
「次からは、もっと難しい場所に隠してください。探すのが楽しくなりますから」
マリアの笑みが、わずかに固まった。
エレナは一礼して、歩き出した。
背後でマリアが何か言いかけた気配があったが、聞こえなかったふりをした。
その夜、ルシアンへの報告の際に、書類が遅延しかけたことを正直に伝えた。
「原因は」
「書類が移動させられていました」
「誰が」
「分かりません」
嘘だった。でも、マリアの名前を言う気にはなれなかった。自分で解決する、と決めていたから。
ルシアンはしばらくエレナを見ていた。
「……嘘をついているな」
「情報が不十分なので、憶測は申し上げられません」
「それも嘘だが——まあいい」
男は書類を受け取った。
「間に合わせたことは、評価する」
それだけだった。短い言葉だったが、エレナには十分だった。




