第87話「川沿いの小屋」
川沿いの宿は、宿と呼ぶより小屋に近かった。
旅人が立ち寄る程度の、板張りの小さな建物だ。炉の煙が上がっていて、中に人がいることが分かった。
ルシアンは馬を木に繋ぎ、扉を叩いた。
老いた主人が出てきた。
「若い女が来ていないか」
主人が少し考えた。
「……昼過ぎに来た。今は部屋にいる」
ルシアンは主人に礼を言い、中に入った。
廊下の奥、一番端の部屋。扉の下から、蝋燭の光が漏れていた。
ノックした。
しばらく間があった。
「……誰ですか」
エレナの声だった。
ルシアンは何も言わなかった。
少し間が空いて、扉が開いた。
エレナが立っていた。目が——驚きで見開かれた。
「…………」
「見つけた」
ルシアンが言った。
エレナは言葉が出なかった。
「今度は——どこへ行こうとしていた」
「……分かりません」
「分からない?」
「……行先を決めずに出ました。ただ、考えたくて」
ルシアンはエレナを見た。その目に、怒りはなかった。
ただ——疲れていた。
「中に入っていいか」
「……はい」
小さな部屋だった。ベッドと小さな机と椅子、それだけの部屋。エレナの荷物が床に置かれていた。
ルシアンが椅子に座った。エレナはベッドの端に座った。
しばらく、二人とも黙っていた。
川の音が、外から聞こえた。
「エレナ」
「……はい」
「なぜ、また出ていった」
エレナは少し間を置いた。
「……怖かったからです」
「何が怖い」
「あなたのそばにいると——流されます。あなたの言葉に、温もりに。流されて、いると言ってしまう。でも——それが本当に正しいのか、まだ分からなくて」
「何が分からない」
「あなたの重荷に、なり続けていいのかどうか」
ルシアンが、少し間を置いた。
「それは——私が決めることだ」
「でも、私も関係しています」
「お前が重荷だと思ったことは、一度もない」
「今は。でも、これから——」
「これからも思わない」
「言い切れますか」
「言い切れる」
エレナは俯いた。
「……あなたは、いつもそうやって断言します」
「断言できることだから」
「でも私は——」
「エレナ」
ルシアンが立ち上がり、エレナの前に膝をついた。
エレナは驚いて顔を上げた。
ルシアンが——床に膝をついて、エレナを見上げていた。
「何を——」
「お前に、聞きたいことがある」
「……はい」
「私と——生きてくれるか」
エレナは、息が止まった。




