第83話「二日目の夜」【R18】
午後、エレナはベルタの薬草師の店に行った。
「突然で、申し訳ありません」
「訳ありで来たのは分かっていたよ。迎えが来たんだね」
ベルタが笑った。
「……はい」
「元気でね。あんたは丈夫そうだから、大丈夫だろうけど」
「ありがとうございました」
「こちらこそ。腕が良かったよ、あんた。また何かあれば来な」
宿に戻ると、ルシアンが一階のロビーで待っていた。
「済んだか」
「はい」
「では明日、出発する」
「分かりました」
その夜も、二人は同じ部屋にいた。
川の音が聞こえる。冬の夜は深く、空気が冷えていた。
「エレナ」
「はい」
「怖かったか」
「何が」
「ここに来てから——一人で」
エレナは少し考えた。
「怖くなかった、というのは嘘になります。でも——一人の時間は、嫌いではなかったです」
「なぜ」
「コルヴィン村にいた頃も、父が死んでから一人でした。一人でいることには、慣れています」
「慣れていることが、正しいわけではない」
エレナは少し笑った。
「あなたに言われました、以前も」
「覚えているか」
「全部覚えています」
ルシアンが、エレナを見た。
「全部、か」
「あなたが言ったことは、全部。最初の夜、宿屋で話したことも、庭で黒薔薇を見たときのことも」
「……私は覚えていないことがある」
「どんなことですか」
「最初の夜、お前に名前を聞いたとき——お前が少し強い言い方で返したことが、なぜかずっと引っかかっていた。でも最初は、何で引っかかるのか分からなかった」
「今は分かりますか」
「……逃げなかったから、だと思う。言い直しもしなかった。ただ、正直に返した」
エレナは少し間を置いた。
「それが——気になった理由ですか」
「十年間、誰も私にそういう返し方をしなかった。だから——」
ルシアンが言葉を切った。
「だから?」
「人間だと、思った」
エレナは、その言葉の重さを受け取った。
人間だと思った。それは——王弟として扱われることに慣れた男が、初めて対等な人間として見た瞬間だった。
「ルシアン」
「何だ」
「私もあなたを、初めて見たときから——人間として見ていました」
「知っている」
「だから、目が離せなかったんだと思います。あなたの目が綺麗だから、というのもありますが」
ルシアンが少し笑った。
エレナもつられて笑った。
その夜も、二人は長い時間を共に過ごした。
昨夜より、穏やかな夜だった。
焦りがなかった。ただ——確かめるように、ゆっくりと。
「エレナ」
「……はい」
「今夜も、名前を呼んでいいか」
「呼んでください。何度でも」
「エレナ」
「……ここにいます」
「エレナ」
「……ルシアン」
二人の声が、川の音に混ざっていった。
月明かりの中で、どちらともなく言葉がなくなり——ただ体温だけが残った。
この二晩のことを、エレナは生涯忘れないだろうと思った。
どんな結末が来ても——この川の音と、この月明かりと、この温もりは、自分の中に残り続ける。




