第84話「三日目の朝、消える前に」
夜明け前、エレナは目を覚ました。
まだ暗かった。窓の外が、ほんのわずかだけ白み始めていた。
ルシアンはまだ眠っていた。
深く、穏やかに眠っていた。二日間、ほとんど眠れていなかった分を取り戻すように。その顔は、エレナが知っている中で一番——無防備で、一番人間的だった。
エレナはその顔を、しばらく見た。
胸が、痛かった。
愛しいと思った。こんなに誰かを愛しいと思ったことは、生まれてから一度もなかった。
だから——決めた。
(行かなければならない)
ルシアンは婚約を断った。国王と話すと言った。
でも——それで本当に、全てが解決するのか。
セルディアとの関係は壊れる。国内の反発は続く。エレナがそばにいる限り、ルシアンは常に何かと戦わなければならない。
昨夜、この温もりの中で——エレナは考えていた。
ルシアンがここまで来てくれたことが、嬉しかった。探してくれたことが、嬉しかった。婚約を断ったと聞いて、泣きそうになった。
でも——。
(この人の重荷に、なり続けていいのか)
エレナには、答えが出なかった。
ただ——今すぐここにいては、また流される気がした。ルシアンの温もりに、言葉に、眼差しに——流されて、「いる」と言ってしまう気がした。
それが正しいのかどうか、自分でもまだ分からないまま「いる」と言うことが——怖かった。
エレナは静かに起き上がった。
ルシアンが動かないことを確認して、服を着た。音を立てないように。
荷物は、昨夜のうちにまとめてあった。
布袋を持ち、部屋を出た。
廊下に出た。
扉を閉める直前、もう一度だけ振り返った。
ルシアンが眠っていた。
「……ごめんなさい」
声を出さずに、唇だけで言った。
「好きです。ずっと好きです」
扉を閉めた。
宿の外に出た。
夜明け前の空気が、冷たかった。川の音が聞こえた。
エレナは歩き出した。
今度は——どこへ行くのか、自分でも分からなかった。
ただ、歩いた。




