第81話「霧橋亭の夜・一日目」【R18】
その夜、霧橋亭に二人でいた。
女将が夕食を運んできた。シチューとパンと、温かいワイン。質素だが、温かかった。
二人は向かい合って食事をした。
「……怒っていますか」
エレナが聞いた。
「何に対して」
「黙って出ていったことに」
ルシアンが少し間を置いた。
「怒っている」
「ですよね」
「しかし——お前の気持ちも、分かっている」
「どういう意味ですか」
「国のために、と思ったんだろう。私を守ろうとして、また一人で決めた」
「……はい」
「それは——やめろ、と言ったはずだ」
「一緒に考えると、言いましたが——今回は」
「今回も同じだ」
ルシアンがエレナを見た。
「一人で抱えるな。お前が言ったことを、お前が破るな」
エレナは少し俯いた。
「……ごめんなさい」
「謝罪は要らない。ただ——もうするな」
「はい」
食事が終わった。
外は冬の夜で、川の音が聞こえた。
ルシアンが立ち上がり、エレナの前に来た。
「エレナ」
「はい」
「二日間——お前がいなかった」
「はい」
「眠れなかった」
エレナの胸が、痛くなった。
「……ごめんなさい」
「だから言うな、謝罪は」
「でも——」
「エレナ」
低い声が、名前を呼んだ。
「……はい」
「そばにいろ。今夜は」
エレナはルシアンを見た。その目に、二日分の疲労と、それよりも深い何かがあった。
「……はい」
二人は、エレナの部屋に入った。
窓から川の音が聞こえていた。冬の川は静かで、低い音を立てていた。
ルシアンがエレナを引き寄せた。
最初は——ただ、抱きしめるだけだった。
強く、しかし壊さないように。エレナを確かめるように。
エレナもルシアンの背中に腕を回した。
「……心配しました」
エレナが言った。
「何が」
「あなたのことを。食事はちゃんとしているか、眠れているか」
「食事はした。眠れなかった」
「草薬茶を置いてきたのに」
「飲んだ。効かなかった」
「なぜ」
「お前がいなかったから」
エレナの目に、また涙が浮かんだ。
「泣くな」
「分かっています」
「目が——」
「光っています、知っています」
ルシアンが、エレナの顎を持ち上げた。
月明かりの中で、目が合った。
「離さない」
誓いのように言った。
「……知っています」
「今夜は——お前のそばにいる」
「……はい」
唇が重なった。
最初は静かだった。でもエレナがルシアンの首に腕を回した瞬間——何かが変わった。
二日分の不在が、二人の間で溶けていくように。
「ルシアン」
「何だ」
「好きです」
「……知っている」
「言いたかっただけです」
ルシアンが、エレナをより深く引き寄せた。
その夜、二人は長い時間を共に過ごした。川の音が聞こえる小さな部屋で、冬の月明かりの中で——二人の体温が混ざり合った。
ルシアンはエレナの名前を何度も呼んだ。確かめるように、刻み込むように。エレナもその名前を返した。
「……ん、ルシアン」
「大丈夫か」
「大丈夫……ここにいます」
「離さない」
「知っています……離さないでいてください」
ルシアンの腕が、より深くエレナを包んだ。
この夜に子が宿るかもしれない、という考えが、エレナの頭をよぎった。でも——止めなかった。止めることが、できなかった。
あるいは——止めたくなかった。
二人の間に生まれるものがあるなら、それはこの夜に相応しいと思った。
夜が深くなっていった。川の音だけが、静かに続いた。




