第6話「出発の朝」
三日という時間は、短かった。
ヘルガへの報告は、想像通りの結末になった。
「は? 王都? 王弟殿下に? あんたが?」
女主人は最初、何かの冗談だと思ったらしい。エレナが真剣な顔をしているのを見て、次に怒りの顔になった。
「あんたを引き取って三年、食わせて住まわせて、まだ借金が残ってるのに!」
「借金はルシアン殿下が返済されます。今日、使者の方から金が届くはずです」
「そういう問題じゃないでしょう! 恩義というものが——」
「ヘルガさん」
エレナは静かに遮った。
「私がここで働いた三年間、賃金はほとんどいただいていません。いただいた分は全て借金返済に充てました。朝から夜まで働いて、休みは年に数日しかなかった。それは恩義ではなく、労働の対価です」
ヘルガが言葉に詰まった。
「私はあなたの親切に感謝しています。でも、それとこれとは別のことです」
その日の夕方、王宮からの使者が宿を訪ねてきた。銀貨と銅貨が、きっちり約束の額だけ。ヘルガはそれを受け取りながら、複雑な顔をしていた。
その夜、エレナは自分の荷物をまとめた。
持ち物は少ない。着替えが二組、父の形見の小刀、そして父が最後の誕生日にくれた、表紙が擦り切れた薄い詩集。それだけだ。小さな布袋一つに全部入った。
宿屋の若い使用人のタニアが、エレナの部屋に来た。十四歳の少女で、エレナが来た頃からここにいる。
「エレナさん……本当に行くの?」
「うん」
「怖くない? 王都なんて、行ったことないでしょ?」
「怖い」
正直に答えると、タニアは少し驚いた顔をした。
「でも行く」
「……なんで」
「怖いから逃げてたら、一生ここから出られない気がするから」
タニアはしばらく黙っていた。それから、小さく頷いた。
「元気でね」
「タニアも」
翌朝、エレナは夜明け前に宿を出た。
広場には、昨日から整備された馬車が止まっていた。黒い馬車。ルシアンのものだ。近衛兵が二人、既に乗車の準備を整えていた。
エレナが近づくと、一人の近衛兵が頷いた。
「お荷物を」
「自分で持ちます」
近衛兵が少し戸惑った顔をした。おそらく、こんなことを言われたのは初めてなのだろう。エレナは構わず、自分で荷物を持ったまま馬車に乗り込んだ。
中には既に、ルシアンが座っていた。
窓の外を見ていて、エレナが乗り込んでも視線を向けなかった。
エレナは向かいの席に座った。少し間があった。
「荷物は少ないな」
「元々、何も持っていないので」
「そうか」
それだけ言って、また沈黙になった。
馬車が動き出した。コルヴィン村の石畳が、車輪の下を流れていく。宿屋の看板が見えた。窓からタニアが小さく手を振っているのが見えた。エレナも小さく手を振り返した。
それを、ルシアンが横目で見ていた。
エレナは気づかなかった。
馬車は霧の中に入っていった。コルヴィン村が、白い霧の向こうに消えていく。
エレナは前を向いた。
王都へ。全く知らない場所へ。この男の隣で——これからどうなるのか、何一つ分からないまま。
それでも不思議と、胸の奥に小さな炎が灯っていた。




