第5話「夜明けの決断」
その夜、エレナは眠れなかった。
屋根裏の小さな部屋——使用人用に割り当てられた、窓もない狭い空間——のベッドの上で、天井を見つめていた。
王都に来る気はあるか。
その言葉が、頭の中でぐるぐると回る。
行くべきか、断るべきか。
行けば、借金は返せるかもしれない。ヘルガの元から離れられる。でも王宮という、全く知らない世界に飛び込むことになる。あの男の——ルシアン・ヴァルドラの——そばで働くことになる。
あの視線を、毎日浴びることになる。
(それが、怖い)
エレナは正直にそう思った。あの男の目には、何か引きずり込まれるような力がある。今日だけで、もう何度も心が乱された。
でも——。
父の言葉を思い出す。
「エレナ、怖いと思ったとき、二つの選択肢がある。逃げるか、向かうかだ。どちらが正しいかは状況によって違う。でもお前は——向かう方が似合ってる」
笑いながら言っていた。大きな手で、エレナの頭をくしゃくしゃにしながら。
(向かう方が似合ってる)
エレナはゆっくりと目を閉じた。
決まった。
明日の朝、あの男に伝えよう。行きます、と。ただし条件がある——借金の全額返済と、いつでも辞める権利。それを認めてもらえるなら。
そう決めたら、不思議と体が軽くなった。
心臓は相変わらずざわついていたけれど、それはもう恐れではなかった。
翌朝、エレナは最上級室に向かった。
扉をノックすると、すぐに「入れ」という声がした。男はすでに起きていて、書類を読んでいた。昨夜と同じ椅子に、昨夜と同じ姿勢で。この男は、眠るのだろうかとエレナは思った。
「……お申し出について、お答えします」
男が顔を上げた。
「行きます。ただし、条件があります」
「聞こう」
「ひとつ。私の借金を全額、今すぐ返済していただくこと。ふたつ。いつでも辞める権利を、私に与えること。この二点を認めていただけるなら、王都に参ります」
男は少しの間、エレナを見ていた。
「借金の額は」
「銀貨三十五枚と銅貨二十枚です」
「……少ないな」
「私には大金です」
「払おう。辞める権利も認める」
あっさりと言った。交渉の余地もなかった。エレナは少し拍子抜けして、それからもう一度男の顔を見た。
「……なぜそんなに簡単に」
「お前が条件を出してきたこと自体、私には十分だ」
「どういう意味ですか」
「ほとんどの者は、私に条件を出せない。ただ頷く。お前は違う」
エレナは何も言えなかった。
「三日後に出発する。準備をしておけ」
それだけ言って、男はまた書類に視線を戻した。
エレナは一礼して、部屋を出た。
廊下に出た瞬間、体から力が抜けた。壁に手をついて、大きく息をついた。
やってしまった、と思った。でも後悔はなかった。
これが——エレナの人生が変わる、最初の一歩だった。




