第4話「夜の椅子」
夕食の時間になった。
宿の夕食は基本的に、一階の食堂で出す。しかしルシアン・ヴァルドラは「部屋で食べる」と近衛兵を通じてヘルガに伝えてきた。ヘルガは「もちろんでございます」と笑顔で答えてから、厨房に戻って「部屋食なんて面倒を!」と怒鳴った。
給仕の役目は、またエレナに回ってきた。
「あなたが行きなさい。もう顔を見せているんだから、今更別の子を出しても変でしょう」
ヘルガの論理は強引だったが、エレナに拒否権はなかった。
銀のトレイに料理を並べた。スープ、パン、焼いた鶏肉、茹でた根菜、そして赤ワインを一杯。これがこの宿の最高の夕食だ。王都の宮廷料理と比べれば、おそらく見劣りするだろう。でも食材は新鮮で、厨房のオーレンおじさんの腕は確かだ。
エレナはトレイを持って階段を上った。
最上級室の扉をノックする。
「どうぞ」
入ると、男は窓際に立っていた。外の景色を見ている。この時間、コルヴィン村の窓から見えるのは、山の稜線と、その上に広がる夕焼けの空だ。深い橙色が、空の端まで広がっている。
エレナは黙ってテーブルに料理を並べ始めた。男は振り返らない。
「これで全てでございます。ご不明な点があれば——」
「座れ」
エレナは手を止めた。
「……は?」
「椅子に座れ、と言った」
男がようやく振り返った。銀灰色の目が、まっすぐエレナを見ている。
「話がある」
エレナは一瞬、状況を整理しようとした。王族の男が、宿屋の使用人に「座れ」と言っている。同じテーブルに、向かい合って座れと言っている。これは命令だ。断るという選択肢は、建前上は存在しない。
でも——なぜ?
「……失礼いたします」
エレナは向かいの椅子に腰を下ろした。背筋を伸ばし、両手を膝の上に置く。男は自分の椅子に座り、ワインには手をつけずにエレナを見た。
「お前は怖くないのか」
「何がですか」
「私を」
沈黙。
「身分も、権力も——私の不興を買えばどうなるか、分かっているはずだ」
エレナは少し考えた。
正直に言えば、怖いと思う。この男が何かひとこと言えば、エレナの生活は終わる。ヘルガは激怒し、エレナは放り出され、行く場所もない状態で王都の外に捨てられるだろう。それは確かに怖い。
でも。
「怖くないと言えば嘘になります」
エレナは答えた。
「でも、怖いからといって言うべきことを飲み込む習慣が、私にはないので」
男の目が、細くなった。怒ったのかと思った。でも違った。何か——興味を持ったような、そんな細め方だった。
「習慣がない、か」
「父が言ったんです。舌は剣より鋭くも、盾にもなり得る、って」
「父は何者だ」
「ただの農夫です。でも、尊敬していました」
過去形を使った。男はそれに気づいたようで、視線がわずかに変わった。でも聞かなかった。そのことが、エレナにはむしろ好感だった。聞かれたくないことを、聞かない。
窓の外で、風が木々を揺らした。夕焼けが少しずつ薄れていく。
「王都に来る気はあるか」
唐突だった。
エレナはすぐに言葉が出なかった。王都。行ったことがない。コルヴィン村から馬車で三日かかる、この国で一番大きな街。
「……どういう意味ですか」
「言葉の通りだ。王宮に仕える者が今、不足している。お前のような人間が必要だ」
「私のような、とは」
男はわずかに黙った。
「恐れを持ちながら、それでも正直に物を言える人間だ」
エレナは、その言葉の意味をゆっくりと咀嚼した。王宮で仕える。借金が返せるかもしれない。ヘルガの元から離れられる。でも——。
「なぜ今日会ったばかりの私を?」
「村に着いたとき、村人たちは全員頭を下げた。お前だけが違った。窓から私を見ていた。目が合ったとき、逃げなかった。一秒、確かに私を見返した」
「……それは馬車が珍しかっただけで」
「そうじゃない」
男の声が、わずかに低くなった。
「ほとんどの人間は、反射的に目を逸らす。恐れから、礼儀から、あるいは打算から。だがお前は——一秒、私を人間として見た。そういう目だった」
沈黙。
「それだけのことが、私には十年ぶりだった」
その言葉は、どこか痛みを含んでいた。エレナの胸の中で、何かが静かに動いた。王族として生まれ、全てを持ちながら——対等な視線を、十年間受け取れなかった孤独。
「……考えさせてください」
エレナは静かに言った。
ルシアンは頷いた。それ以上は何も言わなかった。エレナはトレイを持って立ち上がり、扉に向かった。
扉を閉める直前、振り返らずに言った。
「食事は、冷める前に召し上がってください」
返事はなかった。でもエレナの背中に、男の視線が刺さるのを感じた。




