第3話「最上級室の主」
最上級室は宿屋の二階の奥にある。
普段は使われない部屋だ。コルヴィン村にそれほど裕福な旅人が来ることはめったになく、扉は年に数回しか開かない。そのせいで部屋には薄く埃が積もり、シーツは長期保管のせいで少しだけ湿気た匂いがした。
エレナは一人で働いた。
まずシーツを剥がして、保管庫から一番新しいものを取り出す。次に蜜蠟の蝋燭を三本立て、火をつける。香草水を布に染み込ませて、壁、窓枠、床——隅々まで拭いていく。窓を開けて換気をして、春の山の空気を部屋に入れる。小さなテーブルに水差しと杯を置いて、椅子の埃を払う。
ヘルガは何度か顔を出したが、そのたびにエレナに短い指示を出してすぐ消えた。実際に手を動かすのは全部エレナの仕事だ。
一時間ほどかけて部屋を整えた頃、階下から足音が聞こえてきた。複数の、規則正しい足音。近衛兵だろう。そしてその中に、一人だけ静かな——しかし確かな存在感を持つ、別の足音が混じっていた。
エレナは水差しを手にしたまま、廊下に出た。
そして、男と鉢合わせた。
廊下は狭い。すれ違うには一方が壁に寄らなければならない程度の幅しかない。エレナは反射的に壁側に体を寄せ、俯いた。礼儀として、視線を下げなければならない——そう分かっていた。
でも。
視線を完全には下げられなかった。
男がエレナの前で止まった。近衛兵たちも止まる。
「……使用人か」
声は低い。静かで、感情が乗っていない。何かを確かめているような声だ。
「はい。エレナ・コールと申します。この宿で働いております」
エレナは膝を曲げて礼をした。水差しを持っているせいで、格好が少しぎこちなかった。
「部屋の準備をしていたのか」
「はい。今しがた整えました」
「一人でか」
「……はい」
少し間があった。エレナは顔を上げていいものか分からず、視線を斜め下に固定したまま立っていた。男の靴が見える。黒い革靴で、傷ひとつない。
「名前は」
「……エレナ、です。今申し上げました」
言ってから、少しだけ後悔した。強い言い方になってしまった。でも、撤回する気にはなれなかった。聞いていなかったのはその人の非だ——たとえ相手が王族であっても。
沈黙が落ちた。
怒られるかもしれない、とエレナは思った。それでも体は動かなかった。逃げることが、なぜかできなかった。
「……エレナ」
男が、名前を繰り返した。
確かめるように。転がすように。まるで初めて聞く言語の単語を、口の中で形にしてみるように。
その声の質が、少しだけ変わった気がした。命令の声ではなく——何か、もっと個人的な感触を持った声に。
「水を持ってこい。それだけだ」
男は扉を開け、中に入った。近衛兵たちが続いて、廊下が静かになった。
エレナはしばらく、その場に立っていた。
水差しを持ったまま、男が消えた扉を見ていた。
(変な人)
正直な感想だった。王族というのは、もっと傲慢で、声が大きくて、周囲を威圧するものだと思っていた。でもあの男は——静かだった。静かで、冷たくて、それなのになぜか目が離せない。
エレナは扉をノックし、水差しを届けた。
男はすでに椅子に座り、書類を広げていた。エレナが水差しをテーブルに置いても、視線を上げなかった。
「ご不便なことがあれば、お呼びください」
返事はなかった。
エレナは静かに扉を閉めた。廊下に出て、一つ息をついた。
なぜか胸の中が、少しざわついていた。




