第2話「黒い馬車と銀灰色の瞳」
昼を過ぎた頃、村に騒ぎが起きた。
厨房で昼食の後片付けをしていたエレナの耳に、外の喧騒が届いてきた。子どもたちの歓声、大人たちのざわめき、そして——馬の蹄の音。それも一頭や二頭ではない。複数の、重厚な蹄の音が石畳を叩いている。
エレナは手を止め、窓に近づいた。
広場の方向を見ると、黒い馬車が止まっていた。
それは、この村では絶対に見られない種類の馬車だった。四頭立て。馬はすべて深い黒色で、たてがみが絹のように滑らかで、蹄が夜石のように光っている。馬車本体は漆黒の木材に金の縁取りが施されていて、扉には紋章が刻まれていた——黒地に銀の薔薇。
エレナはその紋章を知っていた。
ヴァルドラ王家の紋章だ。
村人たちはもう全員、その馬車に向かって礼をしていた。老人は帽子を脱いで頭を垂れ、女たちはスカートの端を持って膝を曲げ、男たちは背中を丸めて地面を見ている。子どもたちだけが好奇心に負けて顔を上げていたが、それも親に頭を押さえられていた。
エレナはただ、窓から見ていた。
礼をするという発想が、出てこなかった。それよりも——あの馬車に誰が乗っているのか、という好奇心の方が勝った。
馬車の扉が開いた。
最初に降りたのは、黒い制服の近衛兵が二人。続いて三人目が降り立ったとき、エレナは思わず息を止めた。
男だった。
長身だ。エレナが今まで見てきた誰よりも、背が高い。夜のように黒い髪が、春の風にわずかに揺れる。漆黒のマントが足元まで流れ、その下に覗く衣は深い群青——細かな金糸の刺繍が光を拾って、まるで夜空のように瞬いていた。
整った顔だ。鼻筋が通り、顎のラインが鋭い。しかしその美しさは温かみを持たない。冬の彫像のような、感情を削ぎ落とした美しさだ。
男は広場を一瞥した。
その視線が動いて——宿屋の窓を、見た。
エレナと、目が合った。
一秒か、二秒か。時間の感覚がなくなった。銀灰色の瞳が、エレナを見ていた。それは値踏みするような目ではなく、品定めする目でもなく——ただ、見ていた。まるで世界の中でエレナだけが突然焦点に入ったような、不思議な視線だった。
エレナは逃げられなかった。
いや、逃げようとしなかった、の方が正確かもしれない。視線を逸らす必要を感じなかった。怖いのに、恐ろしいほど引きつけられた。
男の方が先に目を逸らした。
エレナはようやく我に返り、窓から一歩下がった。心臓が早鐘を打っている。頬が、なぜか熱い。
廊下から足音が聞こえた。ヘルガだ。
「エレナ! 聞こえてる? 今すぐ最上級室を準備しなさい! シーツは新しいもの、蜜蠟の蝋燭を三本、それから香草水で部屋全体を——」
「誰が来るんですか」
「ルシアン・ヴァルドラ様よ! 王弟殿下! なんでこんな辺境の宿に……帰路の途中で馬車が壊れたとかで、一泊されるそうなの。もし粗相があったら首が飛ぶわよ、本当に!」
王弟。
エレナは、さっきの男の顔を思い出した。あの冷たい目が、王族のものだった——と知って、なぜか腑に落ちた。あの視線は、ずっと上の場所から世界を見ていた人間のものだ。
「分かりました。すぐに準備します」
エレナは動き出した。心臓はまだ、少しだけ早く打っていた。




