第54話「夏の訪れ」
七月になった。
王都に夏が来た。
コルヴィン村の夏は涼しかったが、王都は別だった。石畳が熱を吸収して、夕方になっても冷めない。宮廷の廊下も、昼間は熱気が籠もった。
エレナは、夏の王宮に慣れながら日々の仕事を続けた。
称号を得てから三ヶ月が経ち、仕事の幅はさらに広がっていた。カルセンとの通商交渉の補佐、国内の農村支援事業への関与、若い侍女たちの教育——様々なことが、エレナの手元に来るようになった。
「多すぎませんか」
リーナが心配そうに言った。
「多いですが、全部大事なことなので」
「でも、無理しています」
「していません」
「目の下に影があります」
エレナは鏡を見た。確かに、少し疲れた顔をしていた。
「……少し疲れているかもしれません」
「正直に言えました。ルシアン殿下みたいですね」
エレナは少し笑った。
その夜、ルシアンが言った。
「顔色が悪い」
「リーナにも言われました」
「休め」
「仕事が」
「明日でいい」
「でも——」
「エレナ」
ルシアンの声が、少し低くなった。
「倒れてからでは遅い。今休め」
エレナは少し間を置いた。
「……分かりました」
「今夜は早く寝ろ。ここには来なくていい」
「でも、来たい」
ルシアンが少し困った顔をした。
「お前は——」
「早く寝ます。でも少しだけ、ここにいさせてください」
ルシアンが、エレナを見た。それから、ソファを指した。
「そこで休んでいろ」
エレナはソファに横になった。ルシアンが毛布を持ってきて、かけてくれた。
「……ありがとうございます」
「礼はいらない」
ルシアンは机に戻り、書類を読み始めた。
エレナは目を閉じた。
蝋燭の光が揺れる気配。書類をめくる音。ルシアンの静かな気配。
それだけで、十分だった。
気づいたときには、眠っていた。
夜明け前に目が覚めると、エレナはソファの上にいた。毛布がしっかりかかっていた。
ルシアンはまだ机の前にいて、眠っていた。
椅子に座ったまま、机に腕を置いて眠っている。
エレナはそっと立ち上がり、ルシアンの上着を取って、肩にかけた。
それから、静かに部屋を出た。
廊下に出て、エレナは少し笑った。
疲れていたのは、二人とも同じだった。




