第53話「過去の扉」
六月になった。
ある日の午後、ルシアンが珍しく言った。
「見せたいものがある」
連れて行かれたのは、王宮の奥の一室だった。
普段は使われていない部屋で、埃はないが空気が古い。棚に古い書類や小物が並んでいた。
「ここは?」
「母の部屋だった」
エレナは静かにその部屋を見渡した。
三十年以上前に亡くなった、ルシアンの母の部屋。
家具は残っていた。小さなドレッサー、椅子、窓際の本棚。窓から庭が見えた。あの黒薔薇の庭が、遠くに見える。
「なぜ今、ここに?」
「お前に見せたかった。理由は——うまく説明できないが」
エレナは部屋の中を歩いた。本棚に並んだ本を見た。詩集、歴史書、植物図鑑——エレナの父が持っていた本と、似たような種類の本だった。
「お母様は、本が好きだったんですね」
「そうだと聞いている。私が生まれてすぐに体が弱くなったので、直接覚えているのはほとんどない」
「でも、この部屋に来ることはありましたか」
「子どもの頃、よく来た。母の香りがしたから」
エレナは窓際に立った。庭が見える。
「ここから、黒薔薇が見えますね」
「母が好きだった花だ。だから、あそこに植えた、と庭師から聞いた」
「百年に一度しか咲かないのに、好きだったんですか」
「咲かなくても、その存在が好きだったらしい。咲く日を、ずっと待っていたと」
エレナはその言葉を聞いて、胸が温かくなった。
咲く日を待つ。それは——希望だ。
「お母様も、あなたのことをずっと見ていたと思います」
ルシアンが少し間を置いた。
「……なぜ」
「この部屋から庭が見える。あなたが子どもの頃、この庭で遊んでいたとしたら——ここから見えた」
ルシアンは窓の外を見た。
しばらく黙っていた。
「……会いたかった」
声が、かすかに震えていた。
エレナは何も言わなかった。ただ、ルシアンの隣に立った。
二人で、窓の外を見た。
庭に、黒薔薇の蕾が見えた。まだ固い蕾。でも、確かに存在している。
「お母様が、また咲かせたのかもしれません」
エレナが静かに言った。
ルシアンは答えなかった。
でも、その目が——少し、濡れていた。




