第47話「春の夜、深く」【R18】
※本話は成人向け描写を含みます。
三月の末、春の嵐が一夜で過ぎ去った翌朝、王宮の庭に花が一斉に咲いた。
それはまるで、嵐が花の蓋を取り払ったようだった。白、薄紅、黄色——庭が一晩で全く違う顔になった。
エレナは朝の散歩でその光景を見て、しばらく立ち尽くした。
こんなに一度に咲くことがあるのか、と思った。
その日の夜、ルシアンが珍しく早く仕事を切り上げた。
「今夜は書類はいい」
エレナが執務室に入ると、ルシアンが窓の外を見ていた。窓から庭が見える。月明かりの下で、昼間に咲いた花が白く浮かんでいた。
「庭が変わっていましたね」
「見たか」
「朝に。きれいでした」
ルシアンが振り返った。
「エレナ」
「はい」
「春になった」
「なりましたね」
「準備ができた」
エレナは少し息を止めた。この前、春になったら話したいことがある、と言っていた。
「聞いていいですか」
「ここではなく——」
ルシアンが少し間を置いた。
「部屋で話したい」
エレナは頷いた。
ルシアンの部屋は、月明かりだけが入っていた。
窓の外に、花の咲いた庭が見える。風が吹くと、花の香りが部屋に流れ込んでくる。
「話とは」
エレナが聞くと、ルシアンは少し間を置いた。それから、エレナの前に立った。
「お前を、正式に私の隣に置く準備が整った」
「……それは」
「貴族に準ずる身分を、国王が認める方向で話が進んでいる。まだ公式ではないが——春のうちに、正式な発表ができる」
エレナは言葉が出なかった。
「身分の差が消えるわけではない。批判もある。でも——お前を隣に置くことを、私は諦めない」
「私は……」
「嫌か」
「嫌なはずがない」
エレナの目に、涙が浮かんだ。
「ただ——あなたにそこまでさせていいのか、と」
「お前のためだけではない。私のためだ」
ルシアンがエレナの手を取った。
「一人でいることに、慣れたくない。お前のそばで、こうして——人間でいたい」
「人間、ですか」
「感情を持つ人間として。王弟としてではなく」
エレナは涙を一粒こぼした。
ルシアンが、その涙を指で拭った。ゆっくりと、丁寧に。
「泣くな」
「嬉しいから泣いているんです」
「分かっている」
「じゃあ泣かせてください」
ルシアンが、低く笑った。
それからエレナを引き寄せた。
月明かりの中で、唇が重なった。
最初はいつもと同じ、静かな口づけだった。でもエレナがルシアンの首に腕を回したとき——何かが変わった。
ルシアンの腕が、エレナの腰に回った。強く、しかし壊さないように。
「……エレナ」
耳元で、名前を呼ばれた。その声が、かすかに揺れていた。
「ここにいます」
エレナが答えた。
二人はベッドに移った。月明かりだけの部屋の中で、春の花の香りが漂っていた。
ルシアンの手が、エレナの髪を梳いた。ゆっくりと、確かめるように。
「怖くないか」
「少しだけ。でもあなただから、平気です」
「無理はするな」
「してません」
エレナがルシアンの胸に手を置いた。心臓の音が聞こえた。速い。いつも冷静なこの男が、今夜だけは乱れていた。
「心臓、速いですね」
「うるさい」
「可愛いと思って言いました」
「……そういうことを言うな」
「なぜ」
「余計なことを考えられなくなる」
エレナは少し笑った。それからルシアンの首に腕を回した。
「では、余計なことを考えないでください」
ルシアンがエレナを見た。月明かりの中で、その目に確かな感情が満ちていた。
「エレナ」
「はい」
「愛している」
その言葉は、静かだった。でも、エレナの胸の奥まで届いた。
「……私も」
エレナの声が、かすかに震えた。
「愛しています」
ルシアンの手が、エレナの頬から首筋へ、肩へと辿った。触れるたびに、エレナの息が乱れた。
「っ……」
「痛いか」
「痛くない……です」
ルシアンは丁寧だった。急かすことなく、エレナの反応を確かめながら、ゆっくりと。
エレナは初めて気づいた。この男の、感情の出し方を。言葉では多くを語らない分——触れる手の優しさに、全てが込められていた。
「ルシアン……」
名前を呼ぶと、男の動きがわずかに止まった。
「何だ」
「何でもないです。呼びたかっただけ」
低いため息が聞こえた。
「……お前は」
「はい」
「どんな場面でも、正直だな」
「あなたの前だから」
ルシアンがエレナを見た。月明かりの中で、その目が、これまで見たことのない深さで輝いていた。
「エレナ」
「はい」
「もっと——呼んでくれ」
それは、命令ではなかった。
懇願だった。
十年間、名前を呼ばれることに飢えていた男の、静かな懇願。
「ルシアン」
エレナは呼んだ。
「ルシアン」
もう一度。
男の腕が、エレナをより強く抱き寄せた。
二人の体温が混ざり合い、春の夜が深くなっていった。花の香りと月明かりの中で、言葉よりも深いところで、二人は繋がっていった。
エレナの小さな声が、静かな部屋に溶けていく。
「……ん、ルシアン」
「大丈夫か」
「大丈夫……です。やめないで」
ルシアンの腕が、より深く回された。
エレナは目を閉じた。この男の温もりを、全身で感じた。これほど誰かを求めたことは、生まれてから一度もなかった。
「エレナ」
「……はい」
「離さない」
「知っています」
「永遠に」
エレナは答えなかった。
代わりに、ルシアンの首に腕をより深く回した。
それが答えだった。
春の夜は、長かった。二人は何度も名前を呼び合い、言葉の代わりに体温を交わした。月が傾き、夜が深くなるほど、二人の間の距離はなくなっていった。
夜明け前、エレナはルシアンの腕の中で目を覚ました。
窓の外が、薄く白み始めていた。庭の花が、朝霧の中でぼんやりと見える。
ルシアンが目を開けた。エレナを見て、静かに目を細めた。
「眠れたか」
「少し。あなたは?」
「久しぶりに、よく眠れた」
エレナは少し笑った。それから、ルシアンの胸に頭を乗せた。
心臓の音が聞こえる。一定で、確かな音。
「ルシアン」
「何だ」
「幸せです」
長い沈黙。
それから、ルシアンの腕がエレナを引き寄せた。
「……私もだ」
その言葉が、春の朝の光の中に、静かに溶けていった。




