第32話「夜の執務室」
十一月の初め、ルシアンの仕事量が増えた。
公爵の件で評議会が揺れているため、ルシアンは通常業務に加えて、各貴族への根回し、書状の真偽を証明するための証拠集め、国王との協議——それら全てを並行して進めなければならなかった。
執務室の灯りが、深夜まで消えない日が続いた。
エレナは、自分にできることを考えた。
書類の整理は、もちろんやる。でもそれ以外に——。
「私に、書類の仕分けを手伝わせてください」
ルシアンに申し出た。
「お前に見せられないものもある」
「見せられないものは除いて結構です。見せられるものだけで十分です。私の目が一つ増えれば、分類が早くなります」
ルシアンが少し間を置いた。
「……貴族の名前は読めるか」
「少し教えていただければ」
その夜から、エレナは毎晩執務室でルシアンの傍ら書類の整理を手伝った。
最初は貴族の名前と役職を覚えることから始めた。ルシアンが教え、エレナが覚える。覚えが早かった。宿屋で働いていた頃、大量の情報を素早く処理する習慣がついていたのかもしれない。
三日後には、エレナは基本的な書類の分類を一人でこなせるようになっていた。
「思ったより早い」
ルシアンが言った。
「褒めてください」
「……よくやった」
「ありがとうございます。でも、もう少し感情を込めてくれると嬉しいです」
ルシアンが小さく笑った。エレナはそれを見て、内心でガッツポーズをした。
深夜、二人が並んで書類を見ている時間は、不思議と穏やかだった。嵐の中の静かな部屋のような——外では公爵が動き、宮廷が揺れているのに、この空間だけは落ち着いていた。
「ルシアン」
「何だ」
「疲れたら言ってください」
「言わない」
「なぜ」
「疲れたと言う必要がない」
「あります」
ルシアンがエレナを見た。
「疲れたと言えば、誰かに心配をかける。心配をかけたくない」
「私に心配をかけることを、気にしなくていいです。むしろ、かけてください」
「なぜ」
「あなたが一人で全部抱えているのを見ている方が、ずっと辛いから」
沈黙。
ルシアンはしばらく書類を見ていた。それから、静かに言った。
「……疲れた」
エレナは少し驚いた。本当に言うとは思っていなかった。
「よく言えました」
「茶が飲みたい」
「作ります」
エレナが立ち上がろうとすると、ルシアンの手が手首を掴んだ。
「待て」
「何ですか」
「……少し、このままでいろ」
エレナは椅子に座り直した。ルシアンの手が、エレナの手の上に重なった。書類の上に並べた手の、ただそれだけの接触。
でもその温もりが——十分だった。




