第31話「公爵の切り札」
十月の末、公爵が切り札を使った。
それは一枚の書状だった。
評議会の緊急招集がかかったのは、朝の業務が始まって間もない時間だった。エレナは廊下で慌ただしく動く官吏たちを見て、何かが起きたと直感した。
アグネスが足早にやってきた。
「執務室に書類を届けるのは、今日は控えてください」
「何があったんですか」
アグネスが少し迷ってから、小声で言った。
「公爵が、書状を提出したそうです。殿下がガルデニアとの政略婚を断った際、殿下が王命に反したという内容の——王兄陛下の側近への根回しを証明するものだと言っているそうで」
「それは本物ですか」
「分かりません。ただ——評議会が動いています」
エレナは頷いて、その場を離れた。
廊下を歩きながら考えた。
書状が本物かどうかは、今は分からない。でも公爵がこのタイミングで動いたことには意味がある。ルシアンが孤立しつつある今、評議会に圧力をかけて——一気に追い詰めようとしている。
エレナに何ができるか。
仕事をすることだ、とエレナは思った。
今、慌てて動けば、それ自体が公爵の材料になる。平民の侍女が評議会に口を出した、ルシアンを操っているという証拠だ——そういう話にされる。
エレナは自分の持ち場で、淡々と仕事を続けた。
書類を整理し、来客の記録をつけ、午後の予定を確認する。何も変わらない日常の動作を、丁寧にこなした。
その夜、ルシアンが戻ってきた。
表情は変わらなかった。でもエレナには分かった——疲れている。目の下の影が、いつもより濃い。
「書状の件、聞きました」
「ああ」
「本物ですか」
「偽物だ。私が王命に反したという事実はない。ただ——偽物であることを証明するには、時間がかかる」
「その間に、公爵が動く」
「そうだ」
ルシアンは椅子に座り、目を閉じた。珍しい仕草だった。
エレナは何も言わずに、湯を沸かしてきた。この宮廷に来てから覚えた草薬茶——緊張をほぐす効能があると、薬草師の本に書いてあった。
カップをテーブルに置くと、ルシアンが目を開けた。
「……何だ」
「疲れているので。飲んでください」
ルシアンはカップを手に取った。一口飲んで、少し間を置いた。
「お前は、こういうことができるのか」
「農家育ちなので、草薬は多少」
「宮廷では役に立たないと思っていた技術が、役に立つ」
「全ての経験は、どこかで使えます。父が言っていました」
ルシアンはもう一口、茶を飲んだ。
「父上の言葉が、よく出てくるな」
「好きだったので。今も、困ったときに思い出します」
「どんな人だった」
エレナは少し考えた。
「大きくて、笑顔が多くて、少し不器用な人でした。農作業は上手いのに、料理が壊滅的に下手で。母が早くに死んだので、二人で暮らしていたんですが、毎晩焦げた夕食を食べていました」
ルシアンが、わずかに表情を緩めた。
「笑ってください。笑える話をしているので」
「笑っている」
「全然笑っていません」
「……これが私の笑い方だ」
エレナは少し考えてから、言った。
「では、私はあなたの笑い方を、もっとよく知らなければなりませんね」
ルシアンが、エレナを見た。その目に、困ったような、でも温かい何かがあった。
「……お前は、どんな状況でも変わらないな」
「変わる必要がないので」
「公爵が動いていても?」
「あなたがいれば、大丈夫です」
ルシアンはしばらく黙っていた。
「根拠は」
「あなたを信じているから。それで十分です」




