第18話「政略婚の影」
七月になった頃、宮廷に緊張が走った。
隣国ガルデニアとの間で、外交上の問題が生じていた。国境付近での小競り合い、通商条件の見直し——それらを一気に解決するための提案として、政略婚の話が浮上した。
ルシアンを、ガルデニアの王の養子に迎える。そしてガルデニアの王女と婚姻させる——というものだった。
宮廷中がその話題で持ちきりになった。
エレナがその話を知ったのは、リーナからだった。
「エレナさん、聞きましたか。殿下のご婚約の話」
「……いいえ」
「ガルデニアの王女様と。まだ正式には決まっていないみたいですが、かなり具体的に進んでいるって」
エレナは何も言わなかった。
「エレナさん?」
「聞こえてるよ。ありがとう」
その日の午後から、エレナは上の空になった。
何度も書類の数字を読み間違えた。廊下で別の侍女にぶつかりそうになった。
(関係ない)
自分に言い聞かせた。
(私には関係のない話だ。殿下が誰と婚約しようと、私の仕事には関係ない)
でも夕方、執務室に書類を届けに行ったとき、エレナは扉の前でしばらく立ち止まった。
いつもはすぐにノックするのに、手が動かなかった。
扉の向こうに、ルシアンがいる。
もし婚約が決まれば、この仕事はどうなるのか。もしガルデニアに行くことになれば——。
(私が心配することじゃない)
エレナはノックした。
「入れ」
ルシアンは書類を見ていた。顔を上げた瞬間、エレナを見て、少し目が細くなった。
「顔色が悪い」
「そんなことはありません」
「嘘だ」
エレナは書類を置こうとした。ルシアンが立ち上がり、エレナの前に来た。
「政略婚の話を聞いたか」
エレナは止まった。
「……はい」
「どう思う」
(どう思う、だなんて)
エレナは少し間を置いてから、答えた。
「それは、あなたが決めることです。私に意見できる立場ではありません」
「建前は要らない」
ルシアンがエレナの前に立った。近い。息がかかるほど近い。
「お前の本音を言え」
エレナは俯いた。心臓がうるさかった。
「……嫌です」
声が出た。止められなかった。
「嫌だと思いました。でも、それはただの侍女としての感情ではないと自分でも分かっていて、だから言えなくて——」
「その婚約は、断った」
エレナが顔を上げた。
「今日の午後に、断った」
「……なぜ」
「お前のそばにいたいからだ」
静かな、しかし絶対の言葉だった。




