第16話「黒薔薇の庭」
五月になった。
王宮の庭が、春の盛りを迎えていた。様々な花が咲き乱れ、朝の庭は香りで満ちていた。
ある日の夕方、ルシアンがエレナに言った。
「庭に、珍しい花が咲いた。見に来い」
「……今ですか」
「今だ」
連れて行かれたのは、王宮の奥まった一角だった。
普段は人が立ち入らない場所で、古い石壁に囲まれた小さな庭だ。手入れはされているが、華やかさはない。植わっているのは一種類の植物だけで、それが今、咲いていた。
黒い薔薇だった。
エレナは息を飲んだ。
深い深紅を通り越した、本当に黒に近い色の薔薇。花弁が厚く、光を吸い込んで返さない。他の花が光を受けて輝くのとは対照的に、この薔薇は光さえも取り込んで、より深い闇を作り出しているようだった。
「きれい……」
エレナは思わず呟いた。
「百年に一度しか咲かないと言われている」
ルシアンが隣に立った。エレナとの距離が、いつもより少し近い。
「なぜ黒いんですか」
「日光を遮断された場所で育てると、こうなるらしい。光を知らずに咲く薔薇だ」
エレナはその言葉を聞いて、何も言えなかった。
光を知らずに咲く薔薇。それは美しいが、どこか悲しい。
「ルシアンは、この花と自分を重ねていますか」
思わず聞いていた。ルシアンが静止した。
「……なぜそう思う」
「なんとなく。でも、違うと思います」
「どう違う」
「この花は光を選べなかった。でもあなたは、今こうして光の中に出てきている。あの村に来て、外の空気を吸って、私と話をしている。誰かに言われたからじゃなく、自分で来た」
ルシアンは黙っていた。
エレナはそれ以上言わなかった。言い過ぎたかもしれないと思いながら。
ルシアンの手が動いた。薔薇の茎をつかみ、一本折った。棘が指を傷つけたが、眉ひとつ動かさなかった。
その薔薇を、エレナに差し出した。
エレナは受け取った。黒い花弁が、掌の中で夜のように重かった。
「エレナ」
名前を呼ばれた。その声が、これまでとは違う質感を持っていた。
「……何ですか」
「お前のそばにいると、私は——」
ルシアンは言葉を止めた。長い沈黙。エレナは待った。
「……何でもない」
それだけ言って、ルシアンは庭を出た。エレナは黒い薔薇を抱えたまま、その背中を見送った。
(何を言いかけたんだろう)
その問いの答えは、エレナの心の中ではもう出ていた。
だから、怖かった。




