第12話「ルシアンの過去」
その日の午後、エレナは偶然、ルシアンの過去の断片を知った。
外交担当のベルト官吏が、回廊で別の官吏と話しているのをエレナはたまたま通りかかって聞いてしまった。二人はエレナに気づかなかった。
「殿下は昔、違ったらしいですよ」
「違った、とは」
「子どもの頃はよく笑っていたと。先代の王妃——殿下のお母君が生きていた頃は」
「……そうでしたか」
「母君が亡くなられたのは、殿下が八歳のときです。それからだそうです。笑わなくなったのは」
声がだんだん遠ざかっていった。
エレナは回廊の柱の陰で、その言葉を聞いていた。
八歳で、母を亡くした。
それからずっと——笑わない子どもになった。
エレナは、父が死んだときのことを思い出した。十六歳で父を亡くして、エレナは三日間泣き続けた。泣き終わってから、立ち上がった。でもそれは十六歳だったからできたことで、八歳だったら——どうだったか分からない。
その夜、ルシアンへの書類を届けたとき、エレナはいつもより丁寧に、そっと書類をテーブルに置いた。
ルシアンが顔を上げた。
「どうした」
「いいえ。何でもありません」
「嘘だ。何か言いたそうな顔をしている」
エレナは少し迷ってから、言った。
「……殿下が子どもの頃、よく笑っていたと聞きました」
沈黙が落ちた。
長い沈黙だった。ルシアンは書類に目を落としたまま動かなかった。エレナは失礼なことを言ったかと思って、謝ろうとした。
「誰から聞いた」
「偶然、耳に入りました。立ち聞きするつもりはなかったのですが」
「そうか」
それだけだった。怒りはなかった。
エレナは退室しようとした。
「……今も笑えると思うか」
背中に、声が来た。
エレナは止まった。振り返ると、ルシアンはまだ書類を見ていた。顔が見えない。
「思います」
「なぜ」
「この前の朝、庭で話したとき——殿下の声が、少しだけ柔らかかった。それは笑顔に近いものだと、私は感じました」
長い沈黙。
「……お前は」
「はい」
「よく、人を見ているな」
批難ではなかった。感心でも、警戒でもなく——ただ、事実を確認するような声だった。
「父に教わりました。人の顔を見ろ、言葉より顔が正直だ、って」
「賢い父親だ」
「はい」
エレナは一礼して、今度こそ退室した。
廊下に出てから、エレナは気づいた。
今夜のルシアンは、いつもより少し——言葉が多かった。




