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黒薔薇の檻  作者: 麗夜
113/150

第113話「知らない自分」

子を、宿している。

その言葉が、頭の中で反響した。

「……医師が、そう言ったんですか」

「ああ。倒れた原因も、それが関係しているかもしれないと」

エレナはしばらく黙っていた。

子供がいる。誰との——。

記憶がなかった。

自分の名前も分からない。どこから来たのかも、分からない。誰を愛していたのかも——。

「私は……何も、覚えていない」

「頭を打ったせいだ。記憶が戻るかどうかは、時間次第だと医師は言っていた」

「子の父は……誰なのか、私には分からない」

男は何も言わなかった。

エレナは窓を見た。秋の空が、白く曇っていた。

何も覚えていない。自分が何者か、どこから来たのか、誰を愛していたのか——全部が、白い霧の中にある。

ただ——体だけが、何かを覚えていた。

朝、気持ちが悪くなること。草薬茶の香りが、どこか懐かしいこと。川の音が、安心すること。

「……名前を教えてください、あなたの」

男が少し間を置いた。

「ライアン・ヴェルクだ」

「ヴェルク……」

「驚かないのか」

「何が驚くことなんですか」

「帝国の名だ」

エレナは少し考えた。

「帝国……それが、どういう意味かも、今の私には分かりません」

ライアンが、エレナを見た。

その目に、複雑な色があった。

「少し休め。話は、体が良くなってからだ」

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