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第113話「知らない自分」
子を、宿している。
その言葉が、頭の中で反響した。
「……医師が、そう言ったんですか」
「ああ。倒れた原因も、それが関係しているかもしれないと」
エレナはしばらく黙っていた。
子供がいる。誰との——。
記憶がなかった。
自分の名前も分からない。どこから来たのかも、分からない。誰を愛していたのかも——。
「私は……何も、覚えていない」
「頭を打ったせいだ。記憶が戻るかどうかは、時間次第だと医師は言っていた」
「子の父は……誰なのか、私には分からない」
男は何も言わなかった。
エレナは窓を見た。秋の空が、白く曇っていた。
何も覚えていない。自分が何者か、どこから来たのか、誰を愛していたのか——全部が、白い霧の中にある。
ただ——体だけが、何かを覚えていた。
朝、気持ちが悪くなること。草薬茶の香りが、どこか懐かしいこと。川の音が、安心すること。
「……名前を教えてください、あなたの」
男が少し間を置いた。
「ライアン・ヴェルクだ」
「ヴェルク……」
「驚かないのか」
「何が驚くことなんですか」
「帝国の名だ」
エレナは少し考えた。
「帝国……それが、どういう意味かも、今の私には分かりません」
ライアンが、エレナを見た。
その目に、複雑な色があった。
「少し休め。話は、体が良くなってからだ」




