静かな夜と、騒がしい別れ
ヴァイオレット家での「婿入り修行」最終日前夜。
屋敷はすでに静まり返っている。
廊下には、夜の気配だけが満ちていた。
普段通りの光景なのに、何故かひときわ静かに感じられる。
眠気覚ましに外に出ると、先客がいた。
「……まだ起きていらしたんですね」
中庭に面した長椅子で、アウレリオ殿下は一人、夜風に当たっていた。
「リリアーナ」
振り返ったその顔は、どこか少しだけ、心細そうに見える。
「眠れませんか?」
問いかけると、彼は小さく苦笑した。
「……少しだけね」
その隣に並ぶ。
「ほらほら、あったかくしてください」
持ってきたストールを肩にかけると、片腕を広げてくる。
「一緒の方が暖かいよ」
小さく頷いて、一緒にくるまる。
思ったより距離が近くて、身の置き所に迷っていると、彼の手が肩に置かれ、そっと促されるままもたれかかる。
……暖かい。
「なんだか手慣れていませんか?」
「え、あ……い、嫌だった?」
とたんにワタワタし始めるところは、やっぱりアウレリオ殿下だ。
「いえ、大変快適です。惚れなおしました」
「え?......え!?」
「でも、いつの間にこんなに女性の扱いに慣れたのかと。このままいくと、誰も彼も誘惑しちゃうお色気キャラになるんじゃないかと心配になってきました」
「だ、大丈夫だよ! 僕はリリーにしかこんなことしない。これは、街で見かけて、いつかリリーとやってみたいなって、本で調べてクッションで練習したんだ! だから安心して!」
……想像してしまった。
突っ込みたいことは山ほどあるけれど、その必死な愛情を素直に受け取っておこう。
私は彼の腕の中で、その練習の成果を静かに堪能する。
「安心しました」
「うん」
虫の音と、遠くの風の音だけが、静かに流れていく。
「明日で、終わりですね」
ぽつりと呟くと、殿下はゆっくりと頷いた。
しばらくの沈黙のあと。
「楽しかったなぁ……」
過ぎ去った幸せを噛み締めているような言葉に、少しだけ胸が痛む。
私はあえてにっこり笑う。
「いつでも帰ってきていいんですからね。それに呼んでくれたら私も飛んでいきます」
殿下は、夜だというのに眩しそうに目を細め、それから私を壊れ物のように優しく抱きしめた。
「リリー、君の家族になれて本当に幸せだよ……ありがとう」
「……こちらこそ」
その言葉の続きを、私は飲み込んだ。
もっと話していたかったけれど、翌日の移動を考えて解散した。
戻った自室で、余韻に浸りそうになる頭を振って、中断していた作業を再開した。
明日、彼が発つ前にどうしても渡したいものがある。
私は再び針を手に取り、柔らかな布地に一針ずつ祈りを込めていった。
◇
夜は、思ったよりもあっけなく過ぎていった。
気づけば空は白みはじめていて、屋敷の中にも、いつもの朝の気配が戻ってくる。
いよいよ出発の時間になり、みんなで外へ向かう。
……が、玄関先ですでに、見送りどころではない騒ぎになっていた。
「だから、私の方が『先輩』なんですから、殿下が譲るべきです!」
「僕の方が先にお願いをしていたんだ。今日だって君は呼んでもいないのにやって来て……!」
……まただ。
初日同様、この王子と聖女は、私を挟んでくだらないマウント合戦を繰り広げている。
今日のお題は『リリアーナとお揃いのデザートを食べる権利はどちらにあるか』
朝食後のデザートは、喧嘩にならないようエレナの好きないちごケーキと、殿下の好きなプリンの両方が用意されていた。
それでもこの二人は、『リリアーナに自分の好物を一緒に食べてほしい』と言い出した。料理長も苦笑いである。
私が式に向けてのダイエットを中断してまで両方食べたというのに、
……二人は相変わらずだ。
「先輩犬」と「後輩犬」のごとく、キャンキャンとやり合っている。
その様子を、後ろで両親が「仲が良いわねぇ」と微笑ましそうに見守っている。
「リリアーナ様、いちご、好きですよね?」
「いちごは好きよ」
「リリアーナは僕よりエレナの方が大事なの!? だから、プリンだけじゃ不満で、いちごケーキも食べたの?」
「そんな話はしていません。どっちも大切な家族です! あと、プリンもいちごケーキも美味しかったです」
「……まあ、リリーはそう言うと思ったけど」
ふいにアウレリオ殿下は顔を背け、言い争いを中断する。
あら、少しは大人になったかしらと感動したのも束の間。
「でも、僕の方を優先してほしいんだ……少しでいいから」
上目遣いで私の服の裾を掴んでくる。
……この人、修行期間中に「甘えればリリアーナは折れる」という、困ったスキルを習得してしまった。
相変わらず愛が重くて、器が小さい。
「ああー、殿下ったらすっかりリリアーナ様に甘えちゃって。甘えん坊さんですねー」
「エレナだって甘えているじゃないか。子供みたいにくっついて」
「そうでーす。私はリリアーナ様が大好きな甘えん坊です。ねー、リリアーナ様」
見せつけるように、私の腕にべったりくっついてくる。
「なっ……なら、僕だって甘えるよ! い、いいよね、リリー」
そう言いつつ、私の腕をきゅっと掴んでくる。
「私の方が甘えん坊です」
「いいや、僕だ!」
「私です!」
「いい加減にしなさい! 二人とも充分甘えん坊です!」
結局、言い合いがエスカレートし、私が本気で雷を落としてようやく二人はしゅんとした。
いつの間にか見送りに来ていた領民達が、何事だとざわめき、『ああ、いつものか』と暖かい目で見守っている。
「まあ、仲が良いのはよいことだ」
「リリアーナもその辺で」
「お義父様、お義母様、お騒がせして申し訳ありません……」
殿下が消え入りそうな声で両親に謝る。
修行が始まったばかりの頃は呼ぶことすらできなかったその呼称も、今ではすっかり板についていた。
改めて、すでに荷物が詰め込まれた馬車へむかう。
馬車に乗り込む直前、家族から殿下へ贈り物が手渡される。
「これは我が領の土で育てた鉢植えです。ここは貴方の土地です。気兼ねなく帰ってきて下さい」
「ありがとうございます、お義父様。大切に育てます」
父からの言葉に、殿下は感極まったように目を潤ませる。
母からは「よろしければ、またご一緒に……」と、殿下がこちらで趣味にした刺繍道具のセットが。
そしてエレナからは、「これ、孤児院の子たちが描いたんですよ」と一枚の絵が手渡された。
その絵には黒髪のお姫様のような女性と、その足元に黄色い丸が描かれていた。
「……これ、僕がリリアーナの横で丸まって慰められているとき?」
「ええ。一番殿下らしい、いいポーズって評判ですよ?」
エレナが不敵に笑う。
殿下は一瞬何か言い返そうとするも、結局、苦笑しながらそれを刺繍セットの隣に収めた。
最後に、私は今朝ようやく完成した包みを差し出す。
「アウレリオ様。中に安眠効果のあるハーブを入れた枕です。王都に戻っても、クマを作らずにちゃんと眠ってくださいね」
殿下は驚いたように目を見開き、カバーの刺繍を指でなぞると、ゆっくりと両手で受け止めた。
「……ありがとう、リリアーナ。これがあれば、どこにいても君のそばにいる心地がするよ」
低く、抑えた声。
初日は緊張で石像のようだった彼が、今では迷いなく、甘い言葉を囁いてくる。
その成長に少し気圧されて、顔が熱くなる。
そんな私を愛おしそうに見つめ、彼はとんでもないことを口にした。
「……この枕は、肌身離さず持ち歩くよ」
「……はい?」
一瞬、耳を疑った。
「やめてください! 持ち歩くなら、以前差し上げたハンカチの方にしてください!」
「もちろん、ハンカチも持ち歩くよ。専用の携帯金庫も職人に作ってもらった」
「ハンカチ専用金庫!? 何を作らせてるんですか!ハンカチはポケットに入れて下さい!」
「この世に一つしかない、幼少期のリリアーナの刺繍作品だよ。ポケットに入れて何かあったら困るじゃないか。枕は金庫に入らないから、大事に抱えて持ち歩くよ」
「……いい加減にしないと、枕もハンカチも没収ですよ」
「そんなっ……だ、だって……」
言い募ろうとした殿下の声が、急に頼りなく揺れた。
――その瞬間。
「……寂しいんだ」
本音がこぼれ落ちたような、掠れた声。
「え?」
「分かっているけど、離れたくない……」
「……レオ様」
寂しいのは、きっと私も同じだ。
婿入り修行の日々は、それだけ穏やかで、楽しくて――当たり前のように隣にいた人が、明日からはいない。
「だから、リリアーナとの思い出の品を肌身離さず持ち歩きたい」
分からなくもないが、枕と金庫は困る。
私は小さく息をついて、自分のポケットからハンカチを差し出した。
「これは刺繍の練習で自分用に刺したもので、私のイニシャル“L”が入っていますけれど……」
少しだけ言葉を選んで、続ける。
「“L”は……レオ様の“L”でもありますから」
「……!」
「ですから、これで我慢してください。枕と金庫の持ち歩きは禁止です」
「……うん。大事にするよ」
アウレリオ殿下は泣きそうな笑顔でハンカチを抱きしめた。そのまま馬車へ向かう。
その背に、エレナが声をかけた。
「ちなみに、その刺繍を刺すとき、お義母様と私も一緒だったんですよ。リリアーナ様ったら、久しぶりの刺繍で緊張しちゃって、可愛らしかったなー」
「エレナ!? なんで今それを言うの」
「だって、アウレリオ殿下が格好つけてたから、つい」
「ついって……」
案の定、アウレリオ殿下は駄々っ子のように悔しがる。
「ず、ずるい! どうして僕も呼んでくれなかったの?」
「だって贈る相手に見られるのは恥ずかしいじゃないですか」
「理由が可愛い! でも、やっぱり見たかった! 僕が僕じゃなければ一緒に刺繍できたのに!」
「それだと、贈る相手がいなくなってしまいますよ。アウレリオ様は、また今度ご一緒しましょう」
「うう……」
それでもまだ、どこか納得いかなそうな顔。
「ほら、皆様お待ちですから」
しょうがないなぁと手を引こうとすると、逆にそっと引き止められる。
彼は、人目を外すように一歩動いた。
そして、私の手を両手で包み込み、祈るように唇を落とした。
急なことに固まる私を見つめるその瞳は、以前の彼とは違う、揺るがない強さを帯びていた。
「リリー、頑張ってくるね。一緒に暮らせる日を楽しみにしている」
もう、不安そうな顔はしていなかった。
「これも練習したんですか」
「う、うん」
「格好良かったです」
「っ!本当!?もっといっぱい練習するね!」
「ふふ、無理はしないでくださいね」
「うん」
同時に微笑みあう。
そしてアウレリオ殿下は背筋をまっすぐ伸ばし、晴れ晴れとした顔で挨拶をしていく。
「……お義父様、お義母様、ありがとうございました。エレナも、世話になった。領民の皆さんも、本当にありがとう」
そのまま、まっすぐ馬車へ向かう。
馬車に乗る前、殿下は名残惜しそうに振り返り、家族一人一人の顔を見つめた。
「行ってきます、リリー。お義父様、お義母様、エレナも」
「ええ、行ってらっしゃい、アウレリオ様!」
私だけでなく、家族全員が、そして集まった領民が手を振る。
それは、彼が単なる客ではなく、この場所に帰ってくるべき「家族」になった証だった。
馬車が動き出し、窓から身を乗り出した殿下が最後に叫ぶ。
「リリー! 愛してるよ!
次に帰ってきた時は、二人っきりでお揃いのプリンを食べようねー!
一緒に刺繍もしようねーーー!! それと――」
感動を台無しにするような、相変わらずの器の小さな叫びが遠ざかっていく。
両親や領民は微笑ましそうに見守り、エレナは満足げに腕を組んでいた。
私は馬車が見えなくなるまで手を振り続けた。
(……ちゃんと、帰ってきてくださいね)
馬車の音が遠ざかり、やがて静けさが戻る。
私の夢見たスローライフとは少し違うけれど、騒がしくて愛おしい日常。
——それこそが、今の私の宝物だと、遠ざかる砂埃を静かに見つめていた。




