刺繍室にて、伯爵が少し拗ねました
絨毯を汚したその日の夕刻、刺繍室に夕刻の柔らかな光が差し込んでいる。
夫人が針を動かす音だけが響く静寂の中、わずかにドアが開いた。
隙間の向こうに、気配だけがある。
夫人はちいさなため息をついた。
「……覗いていらっしゃるのでしょう、旦那様」
顔を上げずとも、夫人はわかっていた。
「すまない」
入ってきた伯爵の手には、摘みたてのゼラニウムの花束があった。
「遅かったですね」
「……花瓶が見つからなくてな。自分で生けようとしたのだが、要領がわからず、侍女に手伝ってもらった」
差し出された花束からは、どこか懐かしい爽やかな香りが漂う。
夫人は一瞬だけ針を止め、その花に視線を落とした。
「いい香り……」
「前に、好きだと言っていたから」
「……いつのことです?」
夫人が少し首をかしげると、伯爵は照れくさそうに答えた。
「結婚前、初めてこの屋敷の庭を散歩した時だ。あの時、君はこの香りを嗅ぐと落ち着くと言っていた」
夫人の瞳が、わずかに見開かれる。
大昔の、本人ですら忘れていた些細な言葉。
「……そうですか。よく、覚えていらしたのね」
夫人は小さく目を伏せて、隣の椅子を促した。
「……では、前回の続きを刺しましょうか?」
「ああ……すまなかった。絨毯を汚すつもりはなかったんだが……」
「ふふ、もうよろしいですよ」
夫人はやわらかく首を振った。
「そのおかげで、アウレリオ殿下と一緒に刺繍ができましたわ……彼に『お義母様』と、呼んでいただけましたし」
「……そうか」
伯爵の声が、わずかに柔らいだ。
「ええ。きっとリリアーナが気を回してくれたのでしょうね」
「ああ、さすがあの子だ……それで、殿下はどんな刺繍を?」
「アウレリオ殿下は……リリアーナと同じモチーフを選ばれました」
「それは……ふふっ、見てみたかった」
夫人は、微笑んだ。
「殿下の針仕事は、驚くほど細やかでしたわ」
「ああ、彼は真面目だから。執務にも熱心に取り組んでくれているよ……」
「それに、とてもやさしい色合いで……図案もユニークで。彼と刺繍をするのは……楽しかったわ」
「……私よりも、楽しいのか?」
不意に、少し拗ねたような声で、伯爵がぽつりとこぼした。
夫人は一瞬、驚いたように手を止め、
それから楽しげに声を立てて笑った。
「まあ。ふふ、どうでしょう……さあ、刺してみてくださいな。期待しておりますよ、旦那様」
「あ、ああ……やってみよう」
夕暮れの刺繍室に、二人分の針の音が静かに、途切れることなく重なっていった。




