#11「マリオネットの糸」【1】
自分自身を消したかった。死を望んでいるわけではない。心や感情、ありとあらゆる欲求が邪魔だった。自分の生まれ持ったもの、周囲との関わりによって自分の中に生まれたものをありのままに認めることのできるような環境を彼女は持ち合わせていなかったし、持っていない、と思うことすら許されていなかった。コルセットで矯正された美女のような、理想的なうわべのみをひたすら求められる存在。それがロマール王国の王族としてこの世に生まれ、あまねく人々に祝福された王女リゼットの半生だった。
王である父の意向によってレイの婚約者に決まったとき、リゼットはなんの疑問も持たずに己の運命を受け入れた。体のいい人身御供に過ぎないことは知っていたが、民のために身を捧げることが王族としての義務なのだと受け止めていた彼女には、怒りも悲しみも絶望も、喜びもなにもなかった。ただ人々の望むままに微笑んでみせるだけ。それがリゼットの人生であり、当たり前のことだった。
しかしレイの存在が彼女の欺瞞に亀裂を作った。
レイはリゼットに名前を呼ばれることを好まなかった。彼は王女に自身のことを「勇者様」と呼ばせようとした。しかしリゼットは応じなかった。そのように呼べば彼を傷つけるような気がしたからだった。レイと接するうちにリゼットはこんなことをふと思った。この人は勇者であることに耐えられないのだろう──そしてレイに同情した。聖剣の使い手であることを理由に、世界とそこに生きるものを救う義務を負わされる。人々は彼の作り上げた安全圏に身を置きながら、彼一人を矢面に立たせ、理想の英雄、理想の救世主であることを求めている。なんて身勝手なんだろう。聖剣の使い手の血筋など、彼が望んだわけではないのに。……そこまで思って不意に気付く。わたしだって、好き好んで王族に生まれてきたわけではなかった。
とはいえリゼットには臣民を恨むことなどできなかった。好き好んで王族に生まれたわけでないと思ってはみても、生まれなど選べないのは誰しも同じこと。勇者に腰を抱かれて歩く王女を横目で盗み見ながら民が安堵したことも、安宿に連れ込まれる王女を目にして痛ましそうな顔をしながらそそくさと隠れていったことも、民に被害が及ばなくて良かったと思うべきであって、思い出すたびに胸の奥が重く沈み込むなんて、王族としての心構えが甘いのだろうとリゼットは思った。自分自身を消したかった。なにも考えたくなかった。自我をすり潰したくて、リゼットはレイの言いなりになった。しかし消そうとすればするほど、レイという鏡を通じて個は際立っていき、己がいったい何者なのかをリゼットに知らしめる。そんなときに声をかけてきたのがエリオだった。
「レイを救いたいのなら、魔王になればいいのです」
少女のような可憐な顔にエリオは妖艶な笑みを浮かべた。
リゼットは耳を疑った。一国の王女に対して、しかも勇者の婚約者に対して、魔王になれと言い出す者が現れるとは思わなかった。リゼットは目だけを動かして周囲の様子を窺った。宮廷魔術師の書斎には、二人のほかには誰もいない。魔王討伐に関する内密の話がある、そう言ってリゼットを招じ入れたのはエリオだった。
リゼットは声を潜めてエリオに聞き返した。
「エリオ。今なんと……」
「レイを救いたいのなら魔王になればいいと申し上げました」
「そのような冗談を口にしてはなりません」
「いいえ、冗談ではありません。わたくしは心から申し上げているのです」
エリオの本心は表情からは読み取れなかった。ただ、その穏やかな声色といたわるような優しげな口調は、孤独な王女の心の隙間に入り込むには充分だった。リゼットは恐怖を感じた。彼女はかつてレイを非難したことがある。魔王のような人だと言って。しかしレイは、リゼットの生まれを理由に民衆が彼女の高潔さにつけ込み、保身のために利用している事実をそれとなく突きつけてきた。それは暗に、心の奥底では民衆を憎んでいるのではないかとリゼットに問うものでもあった。それに対するリゼットの答えは、「わたしはあなたのようにはならない」──レイのようには生きられない、たとえそのように生きたかったとしても。それで終わったはずだった。王女リゼットは臣民を愛し、模範的な王族として生きることになるだろう。自分自身を棄てた上で。しかし今度は宮廷魔術師が彼女の心に入り込み、堅く閉ざしたはずのものを引き剥がそうとする。
リゼットは胸の前で指を握りしめた。
「……人の身で魔王になるなんて、そのような裏切り行為を働くわけには参りません」
「あなたが王位に就けばきっと聖王と呼ばれるでしょう。聖魔は表裏一体であり、あなたの威光は敵対者にとっては魔王のように映る。……リゼット様、一つお尋ね致します。あなたは敵対者に魔王と非難されることを理由に、王族としてなすべきことを放棄なさいますか?」
「いいえ。わたしのすべきことは敵対者の顔色を窺うことではありません」
「それこそが魔王の選択です。……既にお気づきでしょう。聖柱結界を張り続け、精霊力を使い果たせば、世界に未来はありません。勇者と聖柱結界に頼り続けている以上、人類社会は世界の敵でしかないのです。ですが聖剣が覚醒するならば話は別です。覚醒聖剣の使い手は神に等しい力を得る。精霊力に頼らずに結界を張り巡らせることも可能になるでしょう。しかし聖剣を覚醒させるには、魔王の血と魂が必要になるのです」
「だから……だからわたしに魔王になれと……」
リゼットは納得した。そして心から安堵した。レイのため、世界のため、そして人類の未来のためにできることがあるのだと思うと、いるべき場所にいるような安らぎが胸を満たした。地位を捨て、絆を捨て、人類の敵になって死ぬ。どれほど孤独な道だろう。しかしリゼットには輝かしく感じられた。自分の中に芽生えた理想が、圧倒的な力を持って、自分自身のすべてを消してくれることを願った。
「わかりました。わたしは魔王になります。世界とレイにとっての聖王、人類の敵に……」




