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#10「星辰の神殿」【6】

 辺りに熱気が充満する。黒竜の喉が膨れ上がり、黒い鱗の合間から緋色の輝きが見えた。炎のブレスを吐こうとしていることは明白だった。レイはアプサラの腕を掴むと、神殿の外を指し示した。聖剣のはめ込まれた場所とは真逆だとアプサラはすぐに気づいた。

「おい。二手に分かれるぞ。おまえはあっちに逃げろ」

「いいえ、レイ。あなたはわたくしから離れてはなりませんわ」

 自信に満ちたアプサラの言葉にレイは穏やかな笑みを浮かべた。アプサラの目を覗き込み、長いプラチナブロンドを撫でる。その手つきは愛玩動物の毛並みを整えているかのようだった。

「そういうことならあとで好きなだけ付き合ってやる。今は俺の言うとおりにしてくれ」

「わたくしには炎の精霊王の加護がありますの」

 アプサラは少しむっとして、毅然とレイに告げた。今に至るまでに盗み見たレイの痴態を思い出し、彼の欲情が己に向けられることを意識して、嫌悪と恐怖を覚えた。しかし彼女は気づいていた。幼い頃から夢見てきた世界の救済を成し遂げるには、この男の知性や行動力が必要だということを。世界とそこに生きるすべての生命を光で浄化して、この世に恒久の平和をもたらす。生まれてきたこと自体が間違いだったのだから、世界のすべてを救うことで購わなければならない、そんな思いがアプサラを常に駆り立てていた。そしてアブサラはあのとき、研究室で言葉を交わすレイとミリアムを盗み見て、太陽の軌道を変えるすべを彼が求めていることを察知した──

 アプサラは丈の短いドレスの裾を摘まむと、布地に織り込まれた精霊王の力を引き出した。青い炎がドームのように二人を包み込む。驚くレイにアプサラは表情一つ変えずに言った。

「わたくしの傍にいる限り、この世のいかなる炎もあなたに害をなすことはできませんわ」

「おまえはいったい……」

「わたくしは──」

 間の抜けた叫び声がアプサラの言葉を打ち切った。そちらに視線を転じると、弛んだ脂肪に覆われた巨漢が床を転げ回り、レイに手を伸ばしていた。

「か、返せ! それはエルフの女王アーサリアの鍛えし斧、アティルアの聖騎士に授けられし神器だ。貴様のような外道の手に渡すわけにはいかん!」

「へぇ……、そんないいものだったのか。それなら遠慮なく使わせてもらうとするか」

「ば、馬鹿なことを言うな! 貴様のような邪悪な心の持ち主には使いこなせん! 俺こそが……、アティルアの聖騎士アルヴィンこそが使い手に相応しい! 勇者の功績にただ乗りする外道め、斧とその娘を寄越せ。俺は妻一筋だが、その娘だけは特別に妾にしてやろう」

 自称聖騎士のデブは床に這いつくばったまま、大きな歯を剥き出しにし、三白眼をぎらつかせながら一気にまくし立てた。その顔はまるで、空腹の家畜と奇形の猛獣を掛け合わせたかのようだった。レイは何も言わなかった。アプサラはレイの手にした戦斧に目をやり、眉をひそめた。

「……偽物ですわ。このような装飾はエルフ族のものではありませんもの」

「偽物でも構わんさ。武器として利用できるなら、それで充分だ」

 そして黒竜が炎を吐いた。レイとアプサラは青い炎の障壁に覆われ、無傷だった。しかし自称聖騎士は炎に捲かれて発火した。地の底から響くようなおぞましい悲鳴を上げながら、デブは両手を前に伸ばし、レイとアプサラに突進する。アプサラは光剣を構えるが、レイの戦斧の方がリーチが長かった。レイは自称聖騎士の肩に斧を叩き込むと、そのまま斜めに分断した。その末路を見届けることなく、すぐさま黒竜に向き直ると、大きく開いた口に向けて戦斧を投擲する。斧は竜の口を裂いたが、脳に達することはなく、致命傷には至らない。それでも屈強な古代種を怯ませるには充分だった。黒竜は斧を振り落とすべく頭を大きく揺り動かす。まばゆい光が瞬いて、神経を逆撫でするような悲鳴が空気を震わせた。それは黒竜の絶叫だった。黒竜は長い尾を振り回し、床に叩きつけながら、再び耳障りな声を上げた。もはや獲物を屠るための動きではなくなっていた。黒竜はレイには目もくれず、天高く舞い上がり、天井に頭を打ち付けた。理性を失っていることは誰の目にも明らかだった。

「なんなんッスか、これは……」

 派手な服の遊び人が辺りをきょろきょろ見回しながら二人に近づいてくる。背後に黒竜が落下して、遊び人は飛び上がった。黒竜はむくりと身を起こし、口に刺さったままの斧を噛み砕こうと歯を立てた。薄い紙を曲げるように斧の刃がぐにゃりと曲がる。レイに腕を掴まれて、アプサラは彼を見上げた。

「レイ、わたくしに任せて……。聖剣の『影』の力をお見せいたしますわ」

 アプサラは精神を集中し、影の剣を振り下ろす。光刃の軌跡が湾曲し、まるで傷口が開くように漆黒の闇が現れた。次元断の生み出す亀裂だった。星辰の神殿を破壊するわけにはいかなかったので、裂け目自体は小さいが、それでも黒い傷口は黒竜の巨体を引きずり込むには充分すぎるほどの引力を有していた。縦に開いた傷口は、軌道上に立っていた遊び人を巻き込んで、黒竜をこの世から消し去った。そして傷口が塞がる。万物を一瞬で消滅させる漆黒の闇の存在は、もはや誰にも見えなくなった。

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