#10「星辰の神殿」【5】
「神聖魔法の痕跡を感じる。仲間がどこかに隠れてるんだ……」
セリムの苦しげな声が聞こえ、リリエムは慌てて振り向いた。
黒竜の生み出す突風で壁に叩きつけられて床に転げ落ちたとき、受け身を取ったリリエムは直ちに体勢を整えた。しかしセリムはそういうわけにもいかなかったようだった。彼に格闘術の心得はなく、それはリリエムも知っていた。視線の先には、倒れ伏したまま呻くセリムの姿が見える。リリエムはセリムに駆け寄ると、弟を抱き起こした。
彼の重みがずっしりとリリエムの肩にのしかかる。頼りない弟なのに、随分と大きくなった。子供の頃は軽々と抱えることのできた身体は、今ではリリエムよりも大きくなっていた。これからセリムはもっと大きくなっていくだろう。武闘家としての修行を積み、重いものを動かすコツを学んでいても尚、リリエムはセリムの成長に振り落とされそうな気がしていた。力が欲しい。強くなりたい。それはセリムと自分自身のために抱く欲求だったが、そんなことを思うたびに、リリエムの脳裏にはディアスの姿がよぎるようになっていた。
あたしは生きて戻らなければ。あの人を一人にしたくない。
リリエムは目の前の弟に意識を向ける。
「セリム、動ける?」
「う……、うん、大丈夫……。僕にはリジェネレーションがかかってるんだ。そうするようにレイが言ってくれたから。僕、レイのところに戻らなきゃ……」
「ダメよ、セリム。下がってなさい」
「レイには僕が必要なんだ」
「そんなことないわ。あいつは誰のことも必要としてなんか──」
リリエムはレイの方を見て、そこで言葉を失った。突如、レイの傍らに白い少女が現れた。光でできた長剣を持ち、透ける布を重ね合わせた幻想的な服を着ている。少女は光剣で黒竜の前足を切り落とした。黒竜は咆哮を上げ、頭を大きく持ち上げる。黒い鱗に覆われた喉元が膨れ上がり、その隙間からは緋色の輝きが漏れ出ている。炎のブレスを吐こうとしていることは明白だった。
セリムが呪文の詠唱を始める。炎のダメージを軽減する障壁を生み出す呪文だった。しかしそうしている間も黒竜の喉元は膨張し続け、辺りには熱気が充満する。セリムの呪文の完成は間に合いそうになかった。
リリエムは水の精霊力を拳に乗せると、黒竜の喉に向けて放った。しかしそこに蓄えられた炎の力が強すぎるのか、喉に命中する前に衝撃波は霧散した。今度は風の精霊力を黒竜に向けて放つべく、リリエムは意識を集中する。そこに遊び人が現れた。彼はセリムを認めると、細身の剣を抜いた。
「ヒャッハー、ツイてるッス! 勇者がブツブツ独り言言ってるッス! 隙だらけッスよおおおおおお!」
遊び人は剣を振り、セリムに躍り掛かる。そのさなかに彼は傍らのリリエムに目を留めた。遊び人の動きがぴたりと止まる。彼はリリエムと黒竜を遮るように立っていた。
「うっわ、めっちゃ可愛い。……俺、勇者に寝返るわ。賢者モードになったから解るわ。あんなデブが聖騎士なわけないわ」
「邪魔!」
リリエムは遊び人の腹に鋭い蹴りを入れた。遊び人は吹き飛ばされ、身体を折り曲げた格好で黒竜に追突したが、遊び人の尻ごときでは何のダメージも与えられない。風の衝撃波を放つべく、リリエムは再び黒竜に狙いを定める。しかしそのとき黒竜はすでにブレスを吐いていた。リリエムの見たものは、青い炎に包まれた無傷のレイと少女だった。
「いってえええええ! 俺、こういうマニアックなプレイは希望してないッスよ……」
黒竜の足元に転がっていた遊び人が起き上がる。
そのとき、リリエムの視界の隅でまばゆい光が瞬いた。そちらに視線を転じると、弓を手にしたエルフの女の姿が見えた。それはリリエムのチェンジリングの視力が捉えたものだった。エルフの用いる迷彩術には、チェンジリングには容易く看破できるという性質がある。チェンジリングの祖先の妖魔はエルフの奴隷種であり、奴隷たる者、常に主人の動向に気を配らなければならなかった。故に妖魔にはエルフの用いる迷彩術は通用せず、その資質は今もチェンジリングの中に残っている。
リリエムがエルフの女を視認した次の瞬間、黒竜が耳障りな咆哮を上げた。神経を逆撫でするようなその声は、今まで耳にしたものとはまったく違っていた。あの女の仕業だ。リリエムは直感した。しかしこの距離では衝撃波は女には届かない。リリエムは女に向かって駆け出した。頭上を黒竜の尾がかすめ、背後で鈍い音と濁った悲鳴が聞こえた。
「セリム!」
リリエムは慌てて振り返る。さっきまでセリムが立っていたはずの場所に弟の姿はなく、神殿の外に飛んでいく豆粒のような人影が見えた。リリエムはセリムの名を呼ぶと、そちらに向かって疾走した。背後で狂ったような咆哮が聞こえたかと思うと、高い場所に何かがぶつかるような音がしたが、リリエムはもう後ろを見なかった。エルフの女の所行によって黒竜が正気を失ったことと、セリムが黒竜に弾き飛ばされたことを把握していれば充分だった。小さくなったセリムの姿が木々の間に消えた。リリエムは一心不乱に走り続けた。




