#10「星辰の神殿」【3】
突如現れた黒竜は、虚空を滑るように神殿に侵入し、勇者一行へと向かってくる。一見すると、滞空中の蜻蛉のように穏やかに飛んでいるように見えるが、それは竜の巨体と巨大神殿の生み出す目の錯覚で、実際の飛行速度は平均的な人間の歩みよりも遙かに速かった。
「なによ、これ。あいつ、あたしたち全員を始末するつもりなの?」
レイに続いて立ち上がったリリエムは、黒竜と化したミリアムを見据え、格闘用の補助武器を装備する。関節部分に角のような棘の生えた武闘家用の籠手で、炎の精霊力が付与されていた。
一方のセリムは、壁に叩きつけられた衝撃で床に倒れ伏してしまい、自力で起き上がれずにいた。レイは壁際に回り込むと、セリムを抱え起こし、立たせた。
「セリム、僧侶の指輪にセットした短縮呪文はなんだ?」
「うぅ……、リジェネレーションだよ」
「よし。それを今すぐ自分自身にかけろ」
「僕にかけるの? レイじゃなくて?」
「そうだ。おまえ自身にかけろ」
セリムは頷き、レイの指示に従った。聖教会から付与された僧侶の証の指輪には、修得済みの神聖魔法をひとつ、封じておくことができるのだった。魔法はどのようなものであれ、呪文を唱え初めてから発動までに時間がかかるが、僧侶の指輪に封じた魔法は、詠唱や触媒なしで即座に効果を得ることができる上に、術者の精神的な消耗もない。そのため強力な治癒魔法をセットしている僧侶も多いが、駆け出しのセリムには、自然治癒力を驚異的に高める初歩的なリジェネレーションが最良の選択だったのだろう。魔法をかけ終えたセリムにレイは力強く言った。
「……いいか、セリム。俺から離れるなよ」
レイの意図を見抜いたリリエムが横から口を挟む。
「ちょっと。セリムを盾にしないでよ」
リリエムの言葉どおり、壁際に立つレイはセリムの後ろに隠れる格好になっていた。リリエムの非難がましい視線が突き刺さる。しかしレイは悪びれずに答えた。
「聞いただろ、リリエム。こいつは誰にも死んでほしくないんだとよ。だから俺はこいつの願いを叶えてやろうと思ってね」
「こんなときばっかり善人ぶって。誤魔化さないでよね」
「リリィ姉さん、僕はレイの作戦がいいと思う。ミリィ姉さんは御しやすい勇者が欲しいんだ。だから僕を殺せない。竜化の術が解けるまで僕のそばにいるのが一番安全なんだよ。リリィ姉さんも僕から離れないで」
「あたしはそんな情けない真似はしないわ。ここで決着をつける。あいつを生かしておいたら、また……」
リリエムは言葉を切り、まっすぐこちらに向かってくる黒竜に向き直る。彼女が何を言おうとしたのか、レイには理解できた。あいつを生かしておいたら、また、誰かがメイシャのように死ぬ。……まったく。未来の犠牲者を減らしたところでメイシャは戻ってこないんだがな。レイは胸中で独りごちた。
「おい。リリエム。勝手な真似をするな」
レイはリリエムを呼び止めた。自分でも驚くほど冷たい声だったが、リリエムは振り返らなかった。レイは語気を強めた。
「リリエム。そんな武器じゃドラゴンの分厚い鱗は貫けんぞ」
「……鱗は狙わない。目を潰す」
「悪くはないな。だがそう簡単には届かんだろ。来い。聖剣を取りに戻るぞ」
リリエムは返事をしなかったが、レイの言葉に従った。一行は聖剣をはめ込んだ場所に向かって走る。しかし半分も行かないうちに、彼らの行く手を遮る者が現れた。巨大な戦斧を携えた肥え太った巨漢と、いかにも遊び人といった風体の男だった。
巨漢は贅肉を揺らしながら、長い柄のついた戦斧を両手で構えた。
「我が名はアルヴィン。アティルア王国の聖騎士だ。悪しき勇者レイよ、貴様から勇者の座と聖剣を貰い受けに参った。いざ尋常に、勝負せよ!」
「……セリム、下がってろ」
レイは小声でセリムに命じた。突如現れたこの巨漢が聖騎士を自称しているだけの別の何かであることは、誰の目にも明らかだった。レイは体の力を抜き、拳を胸の前で構える。そして腰を軽く落とし、片足を前に出す。自称聖騎士は不満げに顔をしかめた。遊び人が空気を読まずに自称聖騎士に尋ねた。
「……ところでアルヴィンの兄貴。勇者レイってどいつなんッスか?」
「そりゃあ……」
自称聖騎士のアルヴィンは斧の先をセリムに向けた。
「こいつだ。面構えが違う」
「あー、いかにも勇者って感じの顔ッスねぇ。こっちの黒い兄ちゃんは、なーんか悪そうな顔ッスもんねぇ」
「人間の内面は顔に出るからな。悪いことを考えている奴は一目でわかる」
自称聖騎士は大きな歯を剥き出しにしながらニタリと笑った。この世の悪を煮詰めたような、禍々しい笑顔だった。巨漢は巨大な戦斧を振り上げ、まるでバトンを回すように軽々と回して見せながら、一歩、また一歩、レイに近寄ってくる。がら空きの胴にリリエムが跳び蹴りを食らわせた。巨躯を曲げてよろめいたアルヴィンの下顎にレイが鋭い拳を入れる。贅肉アーマーに覆われた自称聖騎士の両手から戦斧が滑り落ち、巨体が黒い床に倒れた。レイは体をひねりながら傍らの遊び人に蹴りを入れる。二人を片づけた一行は先を急ごうとした。しかしこのとき黒竜は間近に迫っていた。耳をつんざくような咆哮が聞こえたかと思うと、再び突風が吹き抜けて、一行を壁に叩きつける。しかも彼らは風圧で散り散りになってしまっていた。レイはもはやセリムを盾にすることはできなかった。そんな中、アルヴィンがむくりと起きあがる。
「神聖魔法の痕跡を感じる。仲間がどこかに隠れてるんだ……」
セリムの苦しげな声が聞こえた。床に倒れたままのレイは、壁を背にして体を丸め、防御の体勢をとる。アルヴィンは贅肉を揺らしながらレイに近づいてきた。
「アティルアの聖騎士の名誉に賭けて……、貴様を地獄に送ってやる」
レイは体をバネのように使い、自称聖騎士の脛に蹴りを食らわせた。そして即座に起き上がり、体勢を立て直す。アルヴィンは脛を抱え、床を転げ回りながら無様にうめいていた。レイはアルヴィンの落とした戦斧に手を伸ばす。ないよりはマシな代物であろうことは覚悟していたが、斧は意外にも軽かった。魔法的なものなのか、それとも素材が特殊なのか、怠惰なデブにも軽々と扱えるのも納得の、扱いやすい武器だった。間近に迫った黒竜が、鋭い鉤爪をレイに向かって振り下ろす。レイはその一撃を戦斧で受け止めると、てこの原理で退けた。しかし巨竜はすぐにレイの元に舞い戻り、再び鋭い鉤爪でその身を引き裂こうとする。
そのとき、新たな人影がレイの前に現れた。レイと黒竜の間にプラチナブロンドの少女が割り込み、振り下ろされた前足を光の剣で斬り落とした。竜の悲鳴が空気を揺るがす。少女の武器の正体をレイは即座に理解した。存在だけは知っている。影の剣。かつては聖剣の一部だったと言われる剣。少女は振り返り、レイの顔を覗き込んだ。
「勇者レイ……、わたくしが助太刀いたしますわ」
アイスブルーの大きな目がレイを捉えた。もしもメイシャが生きていればこれくらいの年齢だろうか。可憐ではあるものの冷たく硬い印象の、美しい少女だった。彼女の顔には見覚えがあった。しかしいったいどこで見たのか、レイには思い出せなかった。




