#6「ヴァルハラの虜囚」【2】
身を清めたフラムディーヌは黒いドレスに着替えると、ヴァルハラ生まれの漆黒の一角獣に横乗りした。炎の蹄を持つ馬は、夢の世界に潜り込み悪夢をもたらす夢魔としてヴァルハラで知られていたが、この世界に来る際にその力は失われた。それでも空を自由自在に飛行する能力を有しており、魔王軍では貴重な移動手段となっている。問題は、乗りこなせる者の少なさくらい。純潔である必要はないが、何者にも染まらない漆黒の魂の持ち主でなければ炎の蹄の一角獣が心を開くことはない。
フラムディーヌを乗せた一角獣は、砂粒をぶちまけたような星空に舞い上がった。二つの月が光っている。魔族の拠点のひとつである浮遊城を発ったフラムディーヌは、黒い夜の海を渡り、アルフレジア大陸の中央部を目指す。彼女の目的地は神都イリュージュだった。ロマール王国領内にありながら独自の軍隊と自治権を持つ宗教都市で、聖教会の総本山があることで知られている。レイの生まれ育った街、そして彼の嫌う場所だ。フラムディーヌはその街を彼から奪うことにした。
人間の住まう主だった都市に張り巡らされた結界は、魔族や魔獣、天使など、魔に連なる因子に反応し、その侵入を堅く拒む。結界は聖柱から引き出した力を用いており、聖柱の力は大地の精霊の生命力によって生み出される。言い換えれば、聖柱の力を使えば使うほど大地の精霊は死んでいく。精霊の数は有限だ。彼らは分裂によって繁殖するが、その速度は緩やかで、このまま結界を張り続ければいずれ大地は枯渇する。そうなれば草木は枯れ、無数の生命が死に至る。それだけではない。自然界の精霊力の均衡が崩れれば、気候が乱れ、大規模な自然災害が発生しやすくなる。人類は魔族に対して籠城戦を選択した。レイは既存の聖柱結界を見直し、結界の守護の及ぶ範囲を大幅に強化したが、それは世界の滅亡を早めただけに過ぎなかった。
空が白み始め、地平線の彼方から金色の太陽が昇る。フラムディーヌは眩しげに顔を背けた。太陽は好きではない。色素のない彼女には光は苦痛でしかなかった。
眼下に神都イリュージュが見える。八芒星の形をした市壁に囲まれた都市が、朝陽を浴びて平原に浮かび上がってくる。無機物でありながら太陽に生命を与えられたかのようで、その光景はフラムディーヌの憎しみをかき立てた。遠くで鐘の音がする。大聖堂の鐘楼で打ち鳴らされる鐘の音、一日の始まりを告げる音だ。街のあちらこちらから豆粒よりも小さな人がわらわらと街路に溢れ出し、その光景にフラムディーヌは虫けらの巣穴を想起した。黒い靴を履いた足と街を見下ろす彼女の胸に、踏み潰してやりたい、そんな衝動がこみ上げる。街は靴より小さいのだから簡単にできるだろう。しかしそれは遠近法の生み出す錯覚に過ぎなかった。実際のイリュージュは聖柱結界に保護されており、魔なる者が近づけば即座にその身を焼き焦がす。
「ここまででいいわ。おまえは城に帰りなさい」
フラムディーヌは夢馬に言うと、その背から飛び降りた。
魔族には飛行能力がある。蝙蝠のような羽を持って生まれた者もいれば、魔力で背に翼を生み出し空を飛ぶ者もいる。しかし魔族としての力の大半を失ったフラムディーヌには、落下の速度と方向を調整することくらいしかできない。フラムディーヌは神都の中央の大聖堂に向かって落ちる。ドーム状に展開する結界が肌を焼き焦がすが、通り抜けたときにはすでに再生され、無傷だった。魔族の姫は大聖堂のステンドグラスを突き破る。曙光にきらめくガラス絵は、エルフの女王アーサリアから聖剣を託された初代勇者を描いたものだった。聖教会の作り上げた救世主を粉砕し、色とりどりの破片と共にフラムディーヌは床に落ちる。
大聖堂では朝の礼拝が始まったばかりだった。倒れ伏したフラムディーヌに聖職者たちが駆け寄るが、一人の男がそれを制した。
「待て。その娘は魔族だ」
波がさっと引くように聖職者たちが後ずさる。フラムディーヌはガラスの破片を払いながら立ち上がり、怪訝そうな顔で耳に触れた。魔族特有の尖った耳。エルフほどには長くない。
「娘よ、その耳のせいではない。そなたの霊気を感知したのだ。魔族特有の霊気をな……」
フラムディーヌは声の主を見た。ひときわ豪奢な法衣をまとい、祭壇に立つ初老の男は一目で法王だとわかるほど威厳に満ちていた。彼の顔立ちは勇者レイに似ているが、レイが年老いたとしてもこの男のようにはならないだろう。顔つきや表情ににじみ出た人生がまったく違う。フラムディーヌの胸がかすかに痛んだ。その痛みが何なのか、彼女にはわからなかった。
法王は魔族の少女に問う。その声は穏やかだが、視線は厳しかった。
「いかにして結界を突破した? 魔なる者が結界に触れれば全身が焼けただれる。しかしそなたには傷ひとつ見当たらぬ」
「わたしは常に死に続けているの」
「故に傷は残らぬというわけか」
フラムディーヌは意外に思いながら法王を見上げた。
「わたしの言葉の意味がわかるの?」
「娘よ、そなたの言葉がわりやすかったのだ」
法王はフラムディーヌに微笑みかける。フラムディーヌは合点した。この男は思っていたよりもずっと、人間社会にとって必要な人物のようだ。魔族の姫はヴァルハラに触れた。ヴァルハラに固着したままこの世で生きるフラムディーヌは、大抵のことを人並みにこなせなくなってしまったが、それでもちょっとした小物をヴァルハラに隠す程度の新たな特技は修得していた。彼女はヴァルハラから一本の鞭を取り出した。それは彼女の愛用品、炎の鞭だった。黒いグリップの先に、蛇のような長い炎が赤々と燃え盛っている。
フラムディーヌは鞭を振るい、法王の首をはね飛ばした。




