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魔王が逃げて、何が悪い?  作者: 冬野ゆすら
第三章
50/64

☆3-9 貴方がこの宿に来るように、わたしが仕向けたの。

2020/01/30 全面書き換え。すみません、別作品用のネタを間違って使ってしまいました。

      取り下げて書き換えてあります。

 男連中が温泉を堪能しているちょうどそのころ、夕闇はふと意識を取り戻した。起き上がろうとしないのは視界が定まらず、更にはぐるぐると頭が揺れたような感覚があるためだ。


(目が……目がぁ……)

 思わず閉じて、それでも止まらない目眩に泣きそうになる。それが何を原因とするかは明白であった。自業自得だと理解はしているが、幸せだったのだ。どこまで自覚があったのかが問題なだけで。

 そう、覚えてはいた。アヴィに絡んだことも、酔い潰れたふりで誘ったことも、……アヴィがどう応えたのかも。しかし、しかしである。あの状態で、誰が本気で迫ったのだと思うものか。そして彼が応えたように見えたのも、とりあえずは場を凌ごうと言う魂胆が見え見えだ。全くもって嬉しくない。幸せだったのは、その寸前までである。それもこれも自業自得であることは分かるけれど、それでも何か救いがあってしかるべきだと夕闇は頭痛に呻きながらも誰かに訴える。

 まあ、あれだ、目覚めたからと言って、酔っ払いの判断というものは、全くもって当てにならないのがよくわかる思考である。


(天籟……何者ですか、彼は……あっと言う間にイーリス様と打ち解けてしまって、アヴィも懐いてしまって。挙げ句の果て、わたしを酔い潰す、なんて。女性を酔わせるなんて、紳士がすることではありませんよ……そのくせ手を出そうともせずに放置とか、せめて何か、……水…冷たい……)

 自業自得だとか手を出されたかったのかと突っ込みを入れる者は不在である。

 ううううと唸るその呻きすらも、頭に響く。響くということは即ち、頭痛である。頭痛など普通はあり得ないので、完璧に二日酔いの症状である。まさか妖魔である自分がと信じたくない夕闇ではあったが、現実である。


「辛そうね。お水、飲む?」

「…くだ…さい……」

「はいはい。自分で起き上がれるかしら?」

 うう、と呻きながら夕闇は身体を起こした。けれど起きていてることが出来ずに倒れかけたそこを、優しく誰かが支えてくれる。差し出された玻璃杯には水滴がついていて、受け取れば更に冷たい。こくこくと飲み干すと、もう一杯が注がれた。今度はゆっくり、ちびちびと口に含み、身体に染み渡らせる感覚を味わう。


「酒精がけっこう残ってるのね。フェネクスが手を抜くなんて珍しいこともあるわ。ああ、大丈夫、抜いてあげるから」

 額に何かを感じたと同時に、頭痛が軽くなり、気持ち悪さが軽減された。目が回っていたその感覚からも解放されて、夕闇は驚いて視線をあげる。そこには、微笑む女性がいた。けれど、昨日の顔触れにはいなかったような気がするし、宿のお仕着せを着ているわけでもない美女に心当たりがない。


「まだ身体が安定していないようだけれど、大丈夫?」

 安定、と夕闇は首を傾げた。が、その弾みで目眩が戻り、気持ち悪さが倍増してしまう。あらあらと、声の主は苦笑する。


「いきなり抜くと、結構目が回るのよね。もう少しゆっくりにしたほうがよかったかしら、ごめんなさいね。その様子だと、酒精の制御は出来ないみたいね。そのまま我慢して、すぐ楽にしてあげるから」

 制御、と夕闇は小さく呟く。声を潜めようと思ってのことではなく、かすれたようなそれしか出ないためだ。”酒精を制御する”、その術がもしかして知識の中にないものかと探ってみるが、違うもの――酒精を完全に抜く術が見つかった。実行したくとも、頭が揺れる状態で実行出来るほど簡単なものではないと、ぬか喜びである。


「私に任せなさい、これでも魔王の一人だから実力はあるのよ。後で術式に落とし込んであげる。酒精はね、濃度を一定化させてしまえば、楽になるのよ」

 初耳だった。自分の知識にないと言うことは、現時点でイーリスも知らないということになる。魔王の一人である彼が知らないことを、どうして彼女は知っているのか。如何に魔王だと言えど……魔王?


(魔王? エレーミアから出ることなどないはずの、魔王さま? イーリス様はあくまで例外で、そもそもが外遊がお仕事で……ああでも別に国を出ることを禁じられているわけではないから、旅行とか……いえそれでも、どうしてこんな、よりによって今このときに……)

「貴女を助けるためかもしれなくてよ?」

 そうかも、と夕闇は笑ってしまった。本当にそうであれば、とてもありがたい。この頭痛と吐き気と目眩を纏めてなんとかしてくれているのだから。


「妖魔の身体は、流体魔素によって安定していることは分かるわね? 食べたものは流体魔素に溶けて同化するから、普通は何の問題もないの。どれだけ大量に食べても平気なのはそのためよ。中には同化に時間がかかるものもあって、それが毒であり、薬であり、酒精であるのだけれど……人間と同じ造りをしていることが、徒になるのね。特に酒精は、そのまま体内を巡ってしまうわ。どういう状態か、わかるかしら?」

 えっと、と夕闇は考えようとする。だが、先ほどより楽なのは間違いないけれど、という状態だ。考えるだけの余裕はない。相手もそれがわかっていたようで、慰めるかのように頭が撫でられた。


「魔素の濃度が薄くなると思えばいいわ。必要な魔素を確保出来ないから、身体の調子が狂ってしまうの。もちろん、それで死んだりしないけれど。少なくとも、実例はないから、そこは安心してね?」

 そうなんだ、と他人事のように夕闇は思う。だがそもそも、妖魔は死ぬのだろうか。消滅しかけた自分がいうのもあれだが、畏域へ入るとかそんな無茶をしない限り、死なないのではないだろうか。そう言えば寿命があるという話も聞かないし。ああでも、この話だと毒なども同様に身体の調子が狂うだけということになるし、それは安心だ。


「まだ安定してないわね。あなた、思考がダダ漏れよ? ああ、大人しくしてね、今整えてるから。ふふ、女の子はね、全く酔わないよりも、ちょっとだけ酔ったときのほうが可愛いのよ?」

 それは人物によるのではと夕闇は苦笑する。特に自分は、……うん。酒は控えよう。あれは不味い、自覚があるのにあれは絶対に不味い。どうしよう、どこまでを自覚があったことにするべきだろうか。あれが全て記憶にあって、押さえている妄想が表に出て来ただけとか、それは流石に彼にばれて欲しくない。あの方にはきっとばれているけれど武士の情けできっと放置してくれるから、それなら皆も同じく放置してくれるだろうし、そうしたら彼だけに何とか……。


「ほら、思考がダダ漏れだってば。今は何も考えずにおきなさい、空回りするだけよ。少し身体が重いかもしれないけれど、それくらいは甘受なさい。いっそ眠ったほうがいいかもしれないわね。ああ、酒精を抜く術式もあげるから、使えそうなら使うといいわ」

 脳裏に浮かんだそれは、さきほどイーリスの知識から読み取ったものと全く同じ術式だった。そうか、妖魔たちはこれを使えるから酒豪なのか。そんな思いが頭を過ると、魔王さまがあらと笑う。


「この術式、扱えるのは私とフェネクスくらいよ? さ、酒精は抜けたわ。お嬢ちゃんはしばらく大人しくしてなさいな、魔素が薄れてるから、術はまともに使えないわよ」

「……は、い?」

 お嬢ちゃん、である。お嬢さんならともかくも、お嬢ちゃん。これは完璧に子供……いや、幼児扱いだ。世話になったとは言え、流石にそれはと顔を上げて――整った顔立ちに覚えはなかったが、はっきりと認識したことでフェネクスの知識が答えを弾き出した。魔王シトリ、初代妖皇の側近であると。


「酒精を制御出来ないなんて、お子様もいいところでしょう。名前も聞いていないし、ね?」

 一瞬おいて、夕闇は赤くなった。何も出来ずにいた自分に水をくれたり酒精を抜いたり、不調の原因と対処方法まで教えて貰っておいて、自分は名乗りも礼も口にしていない礼儀知らず状態だ。まして自分の裡に酒精を消す術があったのに飲み過ぎて探し出せないほどの二日酔いという失態を演じている現状、子供扱いを否定出来る要素がない。


「夕闇と、申します。あの、もう独りでも大丈夫です、お世話を」

「あ、そこは気にしなくていいわ、わたしがこうしていたいだけよ?」

 腕で支えられたとかではなく、その身体に背を預けてしまっていたことに気づき、夕闇が更に赤さを増した。だが女魔王さまに、それを気にする様子はない。


「普段が独りだから、誰かに触れるということがあまりなくて。もうちょっとこのままでいてくれていいのよ。あ、それとも湯浴みに行く? せっかくの温泉宿ですもの、一緒に入りたいわ?」

 まるで子供を愛でる母親である。そこまで迷惑をかけるわけにはと逃げる夕闇を、彼女は離さない。とても楽しげである。


「あの、でも、シトリさま、ここからわたしが姿を消したら皆が心配、する、かもしれませんしっ」

 口走ったその言葉に、あら、と呟きが被る。急転直下、凍り付いたかのようなその声に、夕闇は身を震わせた。


(動け、ない……?)

 フェネクスに作られた身体で今は妖力も十分、不調もなくてほぼ万全のはずなのに、身体が動かない。なぜ、と必死に視線だけを巡らせても何があるわけでもない。ただ、自分を抱きしめる彼女の腕があるだけだ。混乱しそうな夕闇に、シトリがささやきかける。


「わたし、名乗ったかしら? 流石にそれは、礼儀知らずではなくて?」

 ぞくりと背筋を震わせるほどの密やかな囁きだった。耳元にかかる吐息がほんの少し、その奥をくすぐるだけの。


「なんてね、冗談よ。ああ、顔も視線も、動かしてはダメよ。調子を戻したいなら、妖力を巡らせなさい」

 ほんの一瞬で、その妖艶さは掻き消えて、楽しげな声が夕闇を抱きしめる。


「――体内に流れる流体魔素を感じられる? それに合わせて妖力を流して。何を見つけても気にしないで、まずは全体を把握なさい。そうしたら、どこを切り捨てればいいか分かるから。慣れるまでは調整しようと思わない方がいいわ。そうね、やるならそこを足掛かりにして、反撃ね。相手を逆に浸食するのよ。一気に出来れば貴女の勝ちだけれど、今はまだゆっくり、密度だけあげるつもりで――限界まで、ね」

 まるで教導のように、囁かれるがままに妖力を流す。それが己の意思のようでもあり、戸惑ったけれど自分に何が起きているかは自覚することが出来た。させられた、というべきだろうか。そこから手順も全て彼女の言うがまま、まるで操られているかのように妖力を放出する。――それはもう、爆風でしかなくて。


「あ」

「あらあら」

 バキバキと破壊音がした廃墟一歩手前の惨状に、夕闇は顔を蒼くした。


「あ、わ、わたし、わた……っ」

 自分がやらかしたことに蒼白になり、夕闇はわたわたと復元を試みた。だが、上手くいかない。術としては簡単だ、飛び散ったものを呼び戻して復元するだけ。最悪は、全てを複製すればいい。そのはずなのに、出来ないのだ。形は整うのに、模様がおかしい。模様を整えれば、全体が歪む。複製しているはずなのに、大きさがちぐはぐだ。どうして、と顔を歪めた彼女を、シトリが抱きしめる。


「落ち着きなさいな。今の貴女がやってもなんともならないだけよ。わたしが引き受けるから、ね」

 それをされた夕闇が硬直しているのだが、シトリは素知らぬ顔で己の言を実行した。夕闇の頭を撫でながら、周囲に砕け散ったものを引き寄せて復元していく。それだけのことなので、大した術ではない。フェネクスにも出来るし、落ち着けばこの少女にも出来るだろう。でも、と苦笑する。


「酒精の後遺症……が近いかしらね? 完全に抜けるまでは、たぶん無理よ。術式に落とし込んであれば、まだ使えるとは思うけれどね?」

 現状では、術の行使そのものが無理なのである。基本に立ち返れば、当然のことだった。そもそも妖魔は魔素で生きているのであり、それが酒精によって乱されていたのが落ち着いたばかり。実は抜けた分の魔素を補わなければならないので、復元という面倒な術を行使するとか、無茶もいいところだったりする。術式であれば、妖力の使い方まで含めて規定されているはずだから、たぶん発動は可能だろう。効果は怪しいものだが、暴走することはない……はず、だ。


(でも、変ね。どうして妖力だけ余裕があるのかしら?)

 シトリは知らぬことながら、アヴィとのつながりが原因である。あの国で無意識のうちに彼とつないだ妖力回路が、未だに生きているのだ。これは妖力が見えぬものには気づけぬ代物だから、フェネクスも気づいていない。というか意識が戻った時点で解放されたものと誤解しているのである。


「ああ、フェネクスはわたしが叱っておくわね。酒精が残ったままで放置するなんて、許しがたいわ。――それに、来るのが遅いし」

 抱き抱えた夕闇を降ろすことなく、シトリは開け放たれた障子に顔を向ける。腕の中でジタバタする彼女はそのまま、現れた男――フェネクスへと笑いかけた。


「久しぶりね、フェネクス。ずいぶん、女の子に辛辣になったのね?」

「――シトリ!?」

「ええ、わたしよ。……一応は女性の前に出るのだから、もう少し身なりを整えなさいな?」

 浴衣こそ纏っているけれど、髪は濡れたままで、慌てて駆けつけたことがよく分かるその姿に苦言を呈しつつ、水気を払ってみる。フェネクスが決まり悪げに顔を反らして、それでも声に出さないままとは言え礼が聞こえたから、シトリとしては満足であった。


「……夕闇が暴走したと思ったんだが」

「ああ。正確には、わたしが暴走させたのよ。この子、叱らないでね? そもそも、女の子の酒精を抜かずに放置するなんて、おかしいでしょう? それにこの()、若いじゃない。もう少し、配慮があっても良いのではなくて?」

 ぎゅっと抱き込んで見せると、フェネクスが半眼になった。久々に見たその顔に思わず笑ってしまったが、その程度では、苦言を翻す理由にならない。どんな経緯でこの娘を拾ったかは知らないが、あれは、ない。そんな意思を笑顔に籠めると、フェネクスは一瞬たじろいだ。


「――次は、気をつける」

 たじろいだことで、フェネクスは己の非を認めざるを得なかったのだろうなと、シトリは分析した。何を考えてのことなのか、なんとなく分かる気はするけれど褒められる遣り方ではない。少なくとも、その瞬間に同席していないとか、それはもう放置しているだけと同じ事だ。彼女のような若い妖魔に施すには、荒療治が過ぎる。だから、約束させなければならない。


「絶対よ?」

「ああ」

「やらなかったら、わたしが貰うわ」

「それは本人に決めさせてやれ。なんだ、ずいぶん気に入ったみたいだな?」

「ええ、可愛いわ」

 どういう意味だか、とイーリスは内心で溜息をつく。彼女の趣味を知っているイーリスとしては、夕闇に同情を禁じ得ない。まあ、同性同士だから無体をはたらかれるわけでもないし、一応は自分の配下という扱いになるから無碍には出来ないし、保護も出来る。何より奪い取ることは不可能だから、……まあ、同情どまりだな、と。何やら焦っているのに凍り付くという器用な彼女をちょっと面白いと思ってしまったのは済まないと、思わなくもなかったが。

 しばしの沈黙の後、イーリスは問いかけた。


「……どうして、旅館(ここ)に?」

 シトリは首を傾げ、にっこり笑って唇を自分の人差し指で押さえてみせる。


「ひ・み・つ。」

 頭を押さえるフェネクスにしてやったりと舌を出す。ちろり、と出たそれが艶めかしく見えるかどうか彼次第だが、砂を吐いたような顔をしているところを見ると、失敗したようで、ちょっと残念だった。


「なんてね。反対よ、それ。貴方がこの宿に来るように、わたしが仕向けたの。この宿、私が楼主(オーナー)よ?」

「――いや、無理だろう。乗船券は蒼夜が用意したし、船で噂を聞いたから――……」

「ええ、そうよ? ねえ、いくら世界的に有名だからって、旅芸人よ? 夜の夜中に翌朝の乗船券なんて、用意出来ると思う?」

 それは、と言葉に詰まるフェネクスに、シトリはとても楽しげに言葉を続けた。


「そこからは私の仕込みね。温泉宿の噂を聞けば、貴方の事だもの。きっと来ると思ったわ」

 本来であれば、中継地に降り立たせて、そこから複葉機なり迎えをやるなりで対処している。しかし、ちょっとそれでは行き先がばれるので、即席の寸劇を仕立てたのである。飛空挺の乗員は何も知らず、機長と操縦士、そして整備士だけが知っていることだ。シトリが半日遅れで来ることになったのは、…まあ整備士に泣かれたのだ。本当に精密な魔法で制御されているので、本来ならあの三人もバラバラに乗って欲しいところだと。

 付き合いが長いこともあり、フェネクスが使う”興図”の有効範囲は知っていた。疲労困憊で辿り着くだろうと思ってぎりぎりの位置に船を降ろさせたのに、まったくピンピンしているし、そこだけが誤算だった。


「……もし、来なかったら?」

「そのときはそのままで追いかけるわよ。キルメスが来てるもの、そこで会えるでしょ?」

「――移動遊園地か」

 ちっと舌打ちをしたのは、たぶん性格を読まれたことが悔しいのだろう。ただこの程度、たぶん付き合いの短い相手でもすぐにわかるので、そこはもう自分の祭好きを恨んでもらうしかない。実際、この騒動だって彼の国の祭を無視して飛び出していれば、何事もなかったはずなのだから。

 そう言えば、とシトリは思い出した噂で彼に追い打ちを掛けることにした。


「国境の砦が魔王に制圧されたらしいけれど、何か知っていて?」

「……制圧?」

「そう、制圧。ま、今更だし、誰も信じてないみたいだけどね」

 エレーミアとの国交を開いて、百年が過ぎようと言うところである。そう、そもそもがそのつもりであるなら国交など開きはしない。まして、砦一つ落とした程度で揺らぐ国ではないし、その気になったら一気呵成に落とせる国である。多少ざわついただけで兵士の移動もなければ貴族たちの避難もないので、まあ何かの間違いだろうと与太話扱いの噂なのだ。ただまあ、それをやらかしたのが”魔王さま”と来て、やらかしそうな魔王さまへの手助けを依頼された身としては、いったい何があったのか、この機会に知っておきたいのである。


「国境の砦でって、あれだよな? 砂漠の端にある……」

「ええ、それよ。あら、やっぱり貴方が何かやったの?」

 そう言いつつも、シトリの視線は夕闇に向けられている。夕闇はと言えば、何やらフェネクスを見て困り顔だ。どうやら心当たりがあるようだが、彼に気兼ねしているのだろうか。口止め…は、ちょっと考えにくいかなとフェネクスに視線を戻せば、彼もまた、夕闇に視線を向けていた。困惑の気配からすると、本気で心当たりがないのだろうか。


「……夕闇ちゃん、一つ教えてあげる。フェネクスはね、本気で鈍いところがあるから。貴方が気づいていて、彼が気づいていない……って、普通にあり得るわよ?」

「え」

「悪かったな」

 ほぼ被ったその言葉に、夕闇は目を瞬かせた。あの、と口が開いたのは、そのことに納得したからだろうか。


「……砂漠の砦、でしたら。流行性感冒で、皆さん、寝込まれていて」

「あら。それは簡単に制圧できそうね。貴女でも出来るのじゃなくて?」

「あの状態でしたら、たぶん、簡単に。え、いえあのそうじゃないんです、えと、その。食事を作れる人がいなくて、お薬もなくて、それで」

「え? あら、だってフェネクスならどちらも……ああ、そういうこと? え、どうしてそれが制圧になっちゃうの?」

 合点は行ったとシトリは笑う。フェネクスを知る自分は――いや、彼と交流のある面々は誰も、不思議に思わないだろう。そもそも、なぜ彼に医薬の知識があるのかということだ。もちろん、それに興味を持ったからと言うことは大きいだろう。しかしそれ以上に単純な話、彼がお人好しだからなのだ。「知ってればどうにか出来た」というそれが嫌だと、いつだったかに聞いたことがある。妖魔の使う術にも、現界はあるのだから。

 どうせ薬だけではなくて、食事も作ったのだろう。彼はけっこう料理上手だから、胃袋を捕らえたのかもしれない。それがどうして制圧という噂に変わるのか、ちょっとその流れを辿ってみたいところだけれど、ああその兵士たちはどんな幸運か分かっているのだろうか。彼の手料理なんて、もうずっと食べていないからちょっと、うらやましい。

 ひとしきり笑ってから、憮然とした表情のフェネクスに問いかけた。


「そう言えば、愛妾をつれて歩いたそうだけど、その子かしら?」

「ん? ああ、面倒ごとを避けたいからそういうことに」

「召し上げられた愛妾を取り返すために、奉納舞台に乗り込んだとか、ちょっとした英雄譚になってるわよ」

「ちょっと待て何の話だ!?」

 その反応にを楽しみつつ、シトリは彼が知らない舞台裏――報酬の話を語って聞かせた。

 奉納舞台の優勝者は、舞を捧げることを許される。舞を捧げるだけの優秀な者であればということで、流派の独立も適うのである。しかし、それは決まった報酬ではないのだ。本来は、現実として可能ならばという条件がつくけれど、願い事を一つ適えられる、それが副賞である。過去には後宮の姫君――つまりはお妃様の一人を下賜された者もいるらしい。それであれば、召し上げられた愛妾を取り返すことくらい、難しいことではない。その結果、「魔王という地位に頼らず、腕一本で取り返しに向かった好少年」として、すでに好評価だ。たかが一日でそれが町中に広まっているのは、たぶん何者かの差し金だろうが。


「そんな話があったのか、あれ」

「やっぱり知らなかったのね。残念だわ、相手が私じゃなくて」

 シトリとて女性なので、自分を助けに来る少年という舞台(シチュエーション)には惹かれるものがある。だが、流石に自分相手に彼がそれをやることはないだろう。十分に逃げ出すだけの能力はあるし、それを利用して国の立場に揺さぶりを掛けるとか、そういうことも出来てしまうし。


「別に、お前相手でも取り返しには行くさ。けどそれ、話がおかしいぞ?」

「あら、嬉しいわね。おかしいって?」

「そもそも私が飛び込んだのは、あの愚か者が許せなくてでな? 指南役の話は流れてないのか?」

 フェネクスが語るその内容に、シトリは苦笑した。本当に王族なのかそれは、と。

 何しろ相手は、身分を秘して……まあ秘しているつもりの隣国の要人である。普通に考えても礼を逸してはならない相手である。それに加えて人間ではないし、しかもその中でも上位に位置する魔王さまだし。その場での報復で終わればいいが、内容次第では政治問題に発展しかねない。というかエレーミア相手の政治問題など、国の賛同を得られるはずがない。いったいどんな教育を受けたのか、気になるところだ。

 その意見には、フェネクスも遺憾なく同意した。


「災難だったわね、夕闇ちゃん」

「え」

「妾扱いされるし、着飾らされるし。……ああでも、本当に貴女が妾に入っていたら、面白かったかもしれないわね。エレーミア初の属国誕生よ?」

「……はい!?」

「おい」

「不可能じゃないわよ? 何しろ魔王さまの妾を奪い取っちゃうんだもの。正妃にするならまだしも、ねぇ?」

 ふん、とフェネクスは鼻で笑った。

 正妃には、子を成す義務がある。妖魔はそもそもが子を孕んだりしないから、正妃たり得ない。例え正妃を迎えずに養子を得たところで、その立場は妾以外の何者にもならないのだ。報復を恐れるなら、属国と化すもやむなしと判断されるだろう。まあ、現実としてあり得ないのだが。


「渡すわけないものね?」

「心底望むなら別だがな」

 二人に意味ありげに見られて、夕闇は慌てて首を横に振った。冗談ではすまない、きっとこの二人にかかったら強行される。間違いなく。そんな恐怖感に駆られたことは、心の奥底に封印である。


「そう言えば、毛色の違う噂も聞いたわ?」

「毛色?」

「闘技場に闇を読み込んだのも魔王の仕業ではないか、って。見当がつかないんだけど、何をやったの?」

「あー…あれか」

 苦笑しつつ、フェネクスはそれを認めた。ただし、自分は天幕を張っただけで、それを闇にまで深めたのは別人だと明言して。


「……ちょっと意味がわからないのだけど?」

 妖魔の術は自由自在である。と言っても、本人の発想が必要になるから、万能にはほど遠い。天幕を張るだけなら、一時的な実体化だから簡単だ。まあ、闘技場全体ともなると少々大変ではあるけれど。だが、”闇に染める”とか”別人”だとか、それはどういう意味なのか。シトリは遠慮なくそこを突く。


「他言無用だぞ?」

 珍しいとシトリは目を瞬かせた。彼は基本、秘密を持たないし、明かさない。”秘密であることすら秘密に。明かせることは秘密ではない”、それが彼の信条だったはずだから。

 そして聞かされたのは、彼が従者としたメモリアのことである。


「”発動中の他人の術の改変”ねえ……」

 確かにそれが事実であれば、……色々と面倒だと予想はつく。他者の術を打ち消すことであれば妖皇宮の文官たちにも出来るだろうし、もちろんシトリであれば朝飯前だ。制御を奪い、効果を反転させることだって出来る。しかし、それは何れも制御を乗っ取る、或いは無効化するというだけのことであって、改変しているわけではない。それが出来ると知れたら――もし何かの間違いとか、解釈の違いだとしても――その可能性があるというだけで、騒動の元だ。人間たちに知られたら、厄介なことになる。


「……そうね、魔王の愛人に手を出す輩なんて、普通はいないわよね」

「え?」

「愛人?」

 あれは例外中の例外出しと続けようとしたシトリの言は、遮られた。それも当人たちの疑問によって。いや、どう考えてもそれが手っ取り早いし、牽制としても十分だと思うのだが。


「……お前、何か勘違いしてないか?」

「わたし、メモリアじゃありませんよ?」

「……え? 違うの?」

 そう言えば、もう一人――いるのだったか。

登場人物追加 

 魔王シトリ:女性。基本的に世界を放浪している。個人資産けっこうあり。イーリスの旧友。

 友人だけあって、けっこうお人好しだったりするが、本人は「伝染ったのよ」。

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