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魔王が逃げて、何が悪い?  作者: 冬野ゆすら
第三章
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3-6 あああああああっ、あの二人放置してんじゃんっ!?

再始業。ようやく体調が落ち着きました。熱中症は長引きます。

皆様、クーラーの中ではジュースよりもお茶よりも経口補給水をお勧めいたします。

…ゼリータイプはお勧めしませんけどねっ!

「…あのさ、夕闇。食べにくいんだけど?」

「あら、そうですか?」

 ぴったりとくっついて、夕闇が何やら幸せそうに笑いかける。本気で困っているのはアーヴェント一人で、他はまあ、生温かい視線とわくわくの視線が入り混じっている。


「……まさか、こういう酔い方をするとはな」

 ため息混じりに笑うイーリスに、アヴィは情けない顔を見せた。どうやら夕闇は既に酒が入っていて、そこへ術を使ったせいで酔いが一気に回ってしまったらしい。そこで素直に寝てくれれば楽だったのだが、どうやら絡み酒らしく。


「はい。あーん」

「いや、だからねっ!?」

 アヴィの抗議もどこ吹く風である。止めさせようとはしたけれど、夕闇の視界に自分が入らないことを知って、諦めた。まあ周囲にもいるし、相手はアヴィだし、大したことにはなるまいという判断だ。面白がる何人かが給仕を買って出ていることもあって、手を出す必要も無いしと、イーリスは自分の食事に戻った。まあ既に酒の肴ばかりになっていて、呑んでいるところだったのだが。


「意外ですねぇ…あの方、魔王級でしょうに」

「その気になれば受位出来るだろうな。…二人ともだが」

 夕闇と違い、イーリスは酔わない。酒を楽しむことだけができるので、まあ悪くはないのだが、後始末に追われることを考えると、時々憂鬱になる。

 彼の相手をしているのは、女将を務める女妖魔である。珍しく、人間と良い関係でいたので敢えて保護しなかった妖魔だ。エレーミア妖皇国で保護する用意があることだけ伝え、一応は定期的に連絡を取れるようにしておいたことは覚えているが、それだけだ。特に交流があったわけでもないから、本音のところが分からない。


「…てか、なんでこんな宿があるんだ?」

「あら、各地にございますよ。お偉いさん方の隠れ宿として、こっそり有名なんですよ?」

「……うん、そうじゃなくてな?」

 分かっていて答えをはぐらかす女将に、年月の長さを痛感させられるイーリスである。魔王というだけで怯えていて…ああ、いっそあの商人のほうが落ち着いて対応していたか。珍しく妖魔という存在を正確に認識していて、その上で彼女を傍らに置くという剛毅な人間だった。……一介の商人だったことは、悔やまれるのが行幸か。


「そんな、子供の頃のことを」

 けらけらと笑い飛ばす女将だが、その目があやしく光る。


「なんでしたら、夜伽のお相手をいたしますよ。お連れさんにも、お部屋、用意しますし」

「あー…部屋は頼む、二人を同じ部屋にしてやってくれ。私は一人がいい」

 ちょっとまてー、と叫ぶ声が聞こえたような気がしたが、気のせいだろう。こんな会話に気を向ける余裕はないだろうし。


「蒼夜さまから失礼のないようにと承っておりますから。どうぞ、お気になさいますな」

 部下の名前を出されて、イーリスは溜息をつく。そういう気の回し方をする男ではないのだが、さて彼女たちはどう考えているものか。まあ面倒なことは御免なので、とっとと上がるかと、席を立った。


「後で参りますね」

「…好きにしろ」

 言い置いて出て行くイーリスを、アヴィが恨めしげに睨み付けていた。夕闇が絡んでいて、追いかけることが出来ない。どころか、周りの仲居たちも自分を逃がそうとしてくれないのだ。まるで、操られているかのように。


「…っておい、まさか」

 どう見ても正気とは思えない夕闇に、アヴィは一つの可能性を思いつく。うん、彼女が常であればそんなことはしないと言い切れるのだが、今はどうだろう。彼女の能力が規格外なのは、魔王(イーリス)のお墨付きだ。となれば術が暴走したか、或いは…夕闇が暴走しているのか。


(酔い潰しましょう)

 こっそりと、料理人の男が囁いてきた。そういえば彼は、今しがた席を外していたようだと思い出す。その手には酒と思われる瓶がある。


(いや、そりゃ有効かもしれないけどさぁ)

 女である。如何に酒癖が悪く、特殊な体をしているとは言え、夕闇は女性である。妖魔であるとは言え、女性なのだ。それを酔い潰すというその案に、すぐには納得しかねるアヴィである。


(下手に起きてるからまずいんですよ。大丈夫、眠ったら酒精を抜けばいいんです。フェネクス様なら出来ます!)

(お前じゃないのかよっ)

(無理ですよそんな器用な真似っ)

 妖魔ってこんなのばっかり、とアヴィは額を押さえた。自分がやると、どうして言わないのだろう。まあイーリスなら出来ないことなどなさそうだけれど。

 実際は、体内の酒精を消すという真似が出来る妖魔は少なく、他人にそれが出来るのはイーリスくらいだという事実が明かされるのは、ずっと先のことである。


「さあ、夕闇さま、どうぞっ」

 差し出された杯に、一瞬面食らった顔をする夕闇だが、すぐにそれを受け取った。一口で呷り、ぷは、と笑う。

 …とても、可愛い。一瞬、周囲が静まりかえるほどに。

 本人はそれに気づかず、空になった杯を弄ぶ。

 ほら、と肘でつつかれて、アヴィは慌てて酒瓶を受け取った。構えたそれを見て、夕闇がその杯を差し出してくるので、とぽぽぽぽと小気味よい音を立てながら、注いでやると、それもまた一息で飲み干されてしまう。

 ちなみに音から違和感を感じるとおり、やたらとでっかい杯である。


「よく呑めるな……」

「あらー…そう、です、か?」

 とろんとした目で笑う夕闇は、むやみやたらと色っぽい。そこへまた、今度は硝子の器と新しい酒が用意された。杯を取り替えて、注ぐそれは淡い赤、香りからして葡萄酒のようだ。しゅわしゅわと立つ泡を面白そうに見ていた夕闇だが、それもまた、一息で飲み干した。


「いや、もうちょっとさぁ!?」

 ワインてそんな、一気に飲み干すようなものじゃないよなとアヴィが制止するが、既に遅い。気に入ったのか、グラスが差し出されて二杯目を要求される始末である。ほらほらとせっつかれ、仕方無しにワインを注ぐ。…今度は口をつけずに、泡が浮いてくるのを楽しそうに眺めていた。

 うん、これならいい。出来ればこのまま、眠ってくれないものだろうか。

 たぶんそれは、アヴィのみならず周囲の皆の願いだろう。が、流石に適えられるものではなかった。


「はい」

 アヴィの口元に、グラスが差し出される。もちろん、夕闇からだ。


「…いや、おれ酒駄目だって」

「はい」

 分かってると言わんばかりの笑顔だが、引く様子はない。アヴィとしては正直、臭いだけでも頂けない状態で、飲みたいとは全く思わない。流石にそれに付き合う気にはならず、少々強めに押し返した。

 むー、と拗ねたような顔で、夕闇はグラスを呷る。周囲からの視線が痛いが、ここは譲れないしと内心で安堵したところに、にっこりと笑う夕闇の顔が迫った。


「んーっ!?」

 唇にやわらかい何かが押し当てられた。同時に視界がくらりと揺れて、何が起きたと把握するよりも先に、口の中に何かが流し込まれる。一瞬だけ、しゅわりと口の中が弾けた気がした。

 後頭部に、何かやわらかいものがある。たぶん座布団だなと逃避しかけたアヴィの喉が勝手に動き、その喉越しで酒を――先ほどのワインを飲まされたのだと気づく。どうやってと逃避するアヴィと、口移しとしか思えないだろうと冷静に判断するアヴィと、ついでに押し倒されたことで思考がパンクしたアヴィが鬩ぎ合い、とりあえず、唇を離そうとしない夕闇の頭を撫でてみる。うわあ、とか、きゃーっ、とか周囲から何かが漏れたけれど、助けてもくれない奴らに配慮する必要はないしと、意識から排除した。

 重なった唇の中で舌が蠢き、これまでに感じたことのない官能がアヴィに齎される。悪くない、悪くないが…それ以上を求める気になるより先に、夕闇がくてんと潰れた。


「…うん、まあ、たぶんそうだと思った。だから止めなかったんだろ?」

「ええ、まあ。たぶん、そうなるだろうと」

 料理人…たしか、天籟だったかなと仰向けになったままでアヴィは視線を投げた。夕闇を離して寝かせると、自分を起こそうとしてくれるが、とりあえず断った。


「ひょっとして、酔った?」

「んー…たぶん?」

 何しろ酒を飲んだことがないので、酔ったかどうかなんて本人には分からないのである。だが周囲は心得たかのように座布団を並べて寝床にしたり、冷たい布を持ってきたり、ついでに夕闇を離して掛け布団つきで寝かせてみたりと甲斐甲斐しい。さっきまで生贄気分だったんだけどなあとアヴィは苦笑した。


「まあ、その、ごめんなさい? 流石に魔王級の方に逆らえるような奴は……まあ、いなくて」

 一瞬、天籟の視線が泳いだのは、たぶんあの幼女…飛白のせいだろう。他にはいないし、あれはたぶん相手の力量が読めないお子様なんだろうなと、数には入れないでおくことにした。

 だが、そうか。夕闇も魔王級なのか。自分もそうだと…いや、イーリスより上だと言われたような気がするが、夕闇はどうなんだろう? 自分より上なのか、下なのか。純粋な力関係として気になるが、結果次第ではイーリスが落ち込みそうなので、忘れておくことにした。


「とりあえず、部屋を用意するから寝てて下さい。起きなかったから連れていくので」

 ん、と視線だけ返し、アヴィはそのまま目を閉じた。答えようものなら何かまずいことになる、その確証だけはしっかりとあったからである。眠りに落ちる寸前、ふと思い出した。イーリスが酒を抜けるとか言ってたのに、呼ばないのだろうかと。

 アヴィが目を閉じてほんののしばらくしてから、つんつんと彼をつつく指があった。


「……寝た?」

「うん、完全に寝たね。ほら」

 髪を引っ張っても、頬を抓っても、アヴィは反応しない。それを見て、仲居たちは漸く息を吐いた。


「弱すぎでしょ、これ」

「だよなあ。あれだけ食って、あんな一口で酔うって、人間にもなかなかいないだろ?」

「まあ、いなくはないですけど、あれで寝るっていうのは、珍しいかもですねー」

 飲めずに吐く、いつまでも酒精が抜けない、そんな人間は少なくないが、意識がはっきりしているくせにこてんと眠ってしまうとか、それはちょっと珍しい酔い方であるかもしれない。


「あれ、天籟? フェネクスさま呼ばなくていいの?」

「いや、そのつもりだったんだけど、なんか迷宮化してて」

「迷宮?」

 おう、と天籟が頷いた。続き間を彼ら用にしていいかと確認したかったのだが、廊下を踏み出した瞬間に違和感を感じたのだ。慌てて足を戻して事なきを得たが、フェネクスに呼びかけても応答がないので、とりあえず諦めて戻ったところだ。流石に迷宮内に放り込むわけにはいかないから、まあ使っていない従業員部屋で我慢してもらおうと決めて、部屋の用意まで済ませては来たのだが。


「……女将が何かやらかしたか?」

「え、女将さん? なんで?」

「いや、いないから。まさか、フェネクスさま放り出して出かけたりはしないだろ。蒼夜さまがいればあれだけど」

「蒼夜さまは当分来ないでしょ。あー、そういえば……」

 先ほど夕闇とじゃれている間に、夜伽がどうのこうのと言っていた話をされて、天籟は苦笑した。うん、無理に決まっている。よほど慕われてもようやく口づけ一つで別れを告げるような彼に、何を誘いかけているのか。あの迷宮は、おそらく断るのも面倒になって、たどり着けないように仕組んだのだろう。問題はいつまでなのかというところだが、まあ一晩は待ってみよう。というかこの宿が女郎宿だと思われたらどうする気だと、額も抑えた。


「まあ仕方ないよ、女将さんはねぇ」

「昔の情人が忘れられないんでしょ」

 まあな、と天籟は溜息をつく。この宿に来る前に、とある商人の元にいた。まあそこで、愛人のような立場にいたと、本人から聞いている。この宿の男たちは彼女の眼鏡に適わず、唯一その気になったのが蒼夜らしいが、彼はまったく彼女に興味を示さなかった。たぶん、そこをついて同情を買おうというところだとは思うが、まあ、…あのフェネクスにそんな真似が通じるはずが無い。よほどのことがなければ、面倒だとその一言で一切、手を出さずにいられる男なのだ。



「どうする?」

「ほっとけ。どうせお得意の”妖精の迷い道”だろ、入れるはずがない」

 そうねえという声で、皆が納得する。本来は、いくつかの条件があってそれの一つでも満たせば通り抜けることが出来る術式らしいが、フェネクスが改変した結果、特定の品を持たないと抜け出せないと言う特殊仕様になっている。まあ、誰も入れる気がないという表明でもあるので、世話も不要ということでいいだろう。どうせ、朝食はまたこの広間まで来ることになるし、問題は無い。

 そういうことで、三々五々、散っていく。天籟もまた、朝食の仕込みのために厨房へと戻った。


(さて、何にするかね。魚は散々出したしなぁ)

 何しろ妖魔の身体であり、人間とは根本から違うので、胃に優しい料理を選ぶ必要は無い。まあ朝からがっつりというのも好みではないだろうから、そこは考慮する必要があるけれど――宿を作って百年弱、待ちわびた本物の客人だ。思い切り手を掛けた料理を堪能させて、出歩かなかったことを後悔させたい。

 ああ、そうだ、何しろ自分たちを救い上げて置きながら、彼は二度と訪れなかったのだ。

 例えば天籟は、料理人の下働きとして何年も、とある屋敷で飼われていた。その妖力が発露せず、ただ食事が必要ない便利な妖魔として。

 例えば飛白。とある夫婦に養われていた彼女は、処刑される寸前だったらしい。養い親は壊れかけていて、腐りものでも気にせず食べた。妖魔はその程度で死ぬはずもなく、また本能とも言える妖力がそれの中和方法を編み出してしまって、無事だったらしい。だがそんな生き方が長く続くはずも無く、両親が死んでその事実が発覚すると、もう居場所はなかったのだとか。

 仲居をしている面々の中には、メモリアと呼ばれる旧世界の記憶持ちもいる。だが時の権力者や商人たちが望むような記憶ではないがために冷遇されて、ただ閉じ込められていただとか、妖魔としての自覚がないまま放浪していて彼に保護されたりとか、いろいろだ。

 そんなことを思い出す傍ら、手はさくさくと魚を三枚に下ろしていく。捌き方は、下働き時代に散々やらされたし、その後も止めなかったから今ではずいぶんな腕になったと自負がある。市へ連れ出して目利きをさせる料理人もいて、そのときはとにかく楽しかったことを覚えている。だから、…結局は今も、料理人だ。あの場所にいたこと自体は、別に苦ではなかったのだ。

 ではどうして、彼に救い出される道を選んだのか?

 そんなことは単純で、自分で料理をしたかったからだ。捌くだけに飽き足らず、もっといろいろ。その願いと合致したから、彼の誘いに乗った。あの家は取り潰されることになって、働き手はエレーミアに招かれたとか聞いたが、本当だろうか。今もまだ、あの国に行く気にはならなくて、…もう疾うに彼らは死んでしまったと思うけれど。


「やめやめっ、辛気臭いこと考えてたら料理に出るっ!」

 自分の頬をバシッと叩き、思考を切り替える。さあて何にしようか、フェネクスはいいとしても、あの二人は朝までに回復するかどうか妖しいし、やはりそこは彼らに合わせて胃にやさしい料理を披露するべき……。


「あああああああっ、あの二人放置してんじゃんっ!?」

 部屋を用意したのに誰にも、何も言わずに戻ったことを思い出したのはその瞬間である。

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