第9話|景色
現地入りして三日目、学会の合間を縫って、俺たちは街の外れにある遺跡群を訪れていた。
宮之原先生が現地の研究者と話し込んでいる間、俺は資料の整理をしていた。ふと顔を上げると、さっきまで隣にいたはずの織本さんの姿が、どこにもなかった。
「……あいつ、どこ行った」
辺りを見回しても、それらしき人影はない。乾いた砂埃が、風に舞い上がる。俺は、資料を放り出して、遺跡の奥へと駆け出した。息が上がる。汗が首筋を伝う。こんな見知らぬ土地で、はぐれるとどうなるか――想像するだけで、胃の底が冷えた。
キャンパス内でもすぐ迷子になるくせに、こんな見知らぬ土地で目を離すなんて、迂闊だった。焦りながら、細い小道を奥へ奥へと進んでいった。
◇ ◆ ◇
戻らなきゃ、と私は、頭の隅で何度も思う。
要さんも、先生も、きっと心配している。それは、分かっている。
それなのに、足が止まらなかった。
遺跡の外れは、そのまま旧市街の迷路に繋がっていた。今も人が暮らす、生きた路地だった。
乾いた土の色の建物群に、八百屋が荷車に広げた野菜だけが青々しい。石窯で焼かれたパンが平かごにずらりと並ぶ様子は、その絶妙なバランス加減に、思わず足を止めて見入ってしまう。ガラス細工店の陳列棚がきらきらと輝いて目を捉えたかと思えば、その隣の店から、麻袋に山盛りになった香辛料の独特の匂いが鼻をつく。
細い小道を、子供たちが笑いながら走り抜けていき、日陰で丸くなった野良猫が、面倒くさそうに目だけをこちらに向けた。
何もかもが、初めて見るはずの景色なのに、なぜか、その一つ一つが、心の奥を、静かに揺さぶってくる。
――もう少しだけ。
迷路のような街並みを抜けると、ふと視界が開けた。
いつの間にか、上り坂になっていたらしい。気づけば、小高い丘の上にひっそりと広がる遺跡に立っていた。
崩れかけた階段を登ると、そこから、下に広がる新市街の一帯が見渡せた。遠くに、街の喧騒がかすかに届く。
崩れた柱と柱の間を掻い潜るようにして吹き抜ける風は、乾いていて、それでいて生暖かく、なぜか心地よかった。私は、しばらくそこから動けずにいた。
◇ ◆ ◇
やっとの思いで俺がその姿を見つけたとき、彼女は高台にある、崩れかけた遺構の端に座っていた。
呼びかけようとした声が、喉の奥で止まった。
風が吹いて、彼女の髪が大きく揺れる。彼女は、遠くの景色に目をやったまま、じっと動かずにいた。夕暮れ間近の光が、その横顔を薄く染めていた。
――ああ。
俺は、その場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。
美しい、と思った。だがそれは、マアカ様の記憶と重なったからではなかった。今、目の前にいるこの人は、どこからどう見ても、織本麻朱でしかなかった。それでも――いや、だからこそ、俺は、こんなにも強く、目を奪われていた。
――これは、もう駄目だな。俺は、織本麻朱のことが――
そこまで考えて、頭の片隅を、場違いな考えがよぎった。
エイエル陛下に、なんと申し開きをすればいいのだろう。
だが、すぐに、自分でその考えを打ち消した。
――いや。俺はセタルじゃない。瀬戸要だ。
そして、あそこに座っているのは、織本麻朱だ。エイエル様が生涯愛したマアカ様とは、別の人間だ。
だから、これは、誰への裏切りでもない。そう自分に言い聞かせながら、俺は、ようやく声を出した。
「織本さん」
彼女が、はっとしたように振り返った。
「あ……要さん」
「探したんだぞ、こんなところで何やってるんだ」
「すみません……戻らなきゃ、って何度も思ったんですけど」
彼女は、決まりが悪そうに立ち上がりながら、続けた。
「なんでか、足が止まらなくて。この景色、離れがたいっていうか」
「危ないだろ、こんな端っこに座って」
「はい……ほんと、すみません」
謝りながらも、彼女の目は、まだどこか、遠くの景色に未練を残しているようだった。
俺は、それ以上何も言わず、彼女の隣に並んで、同じ景色を見た。
赤く染まりかけた空の下、乾いた大地が、どこまでも広がっている。
この景色を、美しいと思う。
その感情が、前世の記憶のせいなのか、それとも今、隣にいる彼女のせいなのか――俺にはもう、うまく区別がつかなくなっていた。




