第8話|異国
空港を一歩出た瞬間、織本さんの顔から表情が抜け落ちるのが分かった。
頭上には、見慣れないアラビア文字の看板。雑踏、怒号のようなクラクション、香辛料と排気ガスの混ざった匂い。乾いた熱気が、肌にまとわりつく。どこからともなく、大音量でモスクのアザーンが響き渡る。
「ニーハオ! ニーハオ!」
物売りたちが、口々に彼女に声をかけてくる。
「シャワルマ、うまいよ! 安くするよ!」
「タウーク、タウーク! 買ってけ!」
店先では、肉の塊を刺した串がゆっくりと回り、炭火の上で鶏の串が煙を上げている。道端では、初老の男たちが水煙草をくゆらせながら、バックギャモンの盤を挟んで、何やら大声で盛り上がっている。宮之原先生は慣れた様子でその間をすいすい抜けていき、俺もそれに続いた。
だが、彼女だけが、いちいち呼び止められて進めない。
「あ、いや、あの、大丈夫です、けっこうです……!」
振り切ろうとしては、また別の物売りに捕まる。その繰り返しだった。
ようやく人垣を抜け出してきた彼女は、半分泣きそうな顔をしていた。
「か、要さぁん! なんか、想像してたのと全然違うんですけど!」
「どんな幻想抱いてたんだ。この地域じゃ、この国はまだ大人しいほうだぞ」
「うそでしょ……」
彼女は、荷物を抱え直しながら、がっくりと肩を落とした。
「……わたし、研究室選び間違ったかなぁ……」
「それ、私がいる前で言う?」
先生が、振り返らずに突っ込む。俺は思わず、声を出して笑った。
「笑いごとじゃないですよ!」
「悪い、悪い」
そう言いながらも、笑いはなかなか収まらなかった。
◇
タクシーに乗り込んで、ようやく落ち着いたのも束の間、窓の外の景色が変わっていく。
雑踏を抜けると、乾いた土地が広がっていた。
赤茶けた大地、点在する低い建物、遠くに霞む丘陵。風が窓の隙間から吹き込んでくるたび、砂と、日に焼かれた土の匂いがした。
――知っている。
理屈ではなく、もっと深いところで、体がそう言っていた。
この乾いた空気、この光の色、この風の重さ。前世で、俺が生きていた土地の記憶と、あまりにもよく似ていた。
この土地そのものが、あの国だったとは思わない。時代も、地理も、細部はまるで違う。
それでも――この乾いた風だけは、あの頃と、驚くほど同じ手触りをしていた。
隣では、彼女が「はぁ……疲れた……」と、シートに沈み込んでいる。
「災難だったな、さっきは」
「もう、笑いごとじゃないですからね」
「まあ、いい社会科見学だったろ」
「なんか子ども扱いされてる気がする……」
そんな他愛もないやり取りをしながら、俺の意識は、気づけば窓の外の景色より、隣にいる彼女の方に向いていた。
◇
ホテルに荷物だけ置いて、俺たちはその足で、近くの博物館へ向かった。
街中であれほど困惑していた彼女だったが、展示室に足を踏み入れた途端、目の色が変わった。
「うわ、すごい……」
日本の展覧会なら、目玉の数点だけが照明を落として、うやうやしく展示されるようなものが、ここではガラスケースにぎっしりと、これでもかというくらい詰め込まれている。土器も、装飾品も、まるで大したものではないかのように、雑に、けれど惜しみなく並べられていた。
「一つ一つ見てたら、閉館までに回りきれないぞ」
「そんなこと言われても! 見てください、この壺!」
彼女は、俺の忠告など聞かず、展示室を端から端まで、食い入るように眺めて回った。
ガラスケースの奥、埃をかぶった古い陶器の前で、彼女が足を止めた。首をかしげ、しばらく無言でそれを眺めていたかと思うと、ふいに口を開いた。
「当時の人たちは、この壺、ほんとに便利だったのかなあ……なんか持ちにくそうじゃないですか?」
その横顔を見ながら、俺の頭の中で、静かに別の記憶の蓋が開いた。
――マアカ様は、これによく似た形の壺を気に入って、いつからか、花瓶として使うようになっていた。
そんな記憶が、ふと頭をよぎる。だが、目の前で首をかしげているこの人は、あの時のマアカ様とは、明らかに違う顔で、違う言葉で、それを見ていた。
――別の人間なんだ、やっぱり。
分かっていたことのはずなのに、その一言が、胸の奥に静かに落ちていくのが分かった。ほっとしているのか、寂しいのか、自分でもうまく判別がつかない。ただ、目の前で壺を覗き込む横顔だけが、やけに鮮明に見えた。
別の展示ケースの前で、彼女がまた立ち止まる。
「わあっ、綺麗! こういうの、たくさんつけてたのかなあ……素敵……」
装飾品の並んだケースを、うっとりと眺めている。
――マアカ様は、この手のものには、珍しく興味を示さなかった。エイエル陛下も同じで、衣装や装飾品を持った侍女たちに、いつも二人揃って追いかけ回されていたのを思い出す。
思い出し笑いがこみ上げて、俺は堪えきれず、彼女の横で、一人、小さく笑った。
◇
その夜は、こちらの大学に勤める日本人研究者と、夕食を共にした。
宮之原先生の古い知り合いだというその人は、現地での調査の苦労話や、街の歩き方のコツなどを、面白おかしく聞かせてくれた。織本さんは、すっかり話に夢中になっている。
賑やかな食卓の隅で、俺は一人、今日一日のことを振り返っていた。
雑踏の匂い、乾いた風、博物館で見た彼女の横顔。
どれも、前世の記憶とよく似ていた。それでも今日、俺の目に焼き付いたのは、あの頃には見たことのない顔ばかりだった。
こうして、学会帯同初日の夜は更けていった。
この先の数日で、この土地が、俺たちにとって、どんな記憶を刻むことになるのか――まだ、何も分かっていなかった。




