第7話|誘い
私がこの研究室に配属されて、数か月。ようやく、ゼミの空気にも慣れてきた頃だった。
「はい、今日はみんなに、ちょっと嬉しいお知らせです」
ゼミの終わり、蛍光灯の白い光の下で、宮之原先生がそう切り出した瞬間、教室の空気が一瞬だけ緩んだ気がした。けれど私は、正直、あまり期待していなかった。この人の「嬉しいお知らせ」は、大抵、締め切りが増える系のお知らせだと、私にももう分かっている。案の定、隣の席で橘さんが「うわ、来た」と小声で呟くのが聞こえた。
「来月、向こうで開かれる国際会議で、私も発表することになりました。それで、せっかくだから、現地の史料館にも足を延ばそうと思っていて」
先生は、いつになく機嫌が良さそうに続けた。
「誰か一緒に来る? 研究費の兼ね合いで、二人くらいかな」
「俺はもう何度も付き合わされたんで、今回はパスします」
橘さんが、真っ先に手を挙げて辞退した。
「私も、就活あるんで無理です」
このみさんも、申し訳なさそうに続く。
「じゃあ、瀬戸くん、一緒に来る?」
要さんは、少し驚いた顔をして、それから頷いた。
「行きます」
「決まり。あと、織本さんもどう?」
「え、私もですか!?」
思わず、大きな声が出た。
「発表準備、瀬戸くん一人だと大変でしょう。それに、織本さんの研究テーマにも、現地の史料は関係あるし」
先生はそう言うと、あとは涼しい顔で「じゃ、詳細はまた連絡します」とだけ言って、さっさと教室を出て行ってしまった。相変わらず、嵐みたいな人だ。
◇
「……行くんですね、私たち」
ゼミが終わったあと、荷物をまとめながら、私は隣の要さんに話しかけた。
「そうみたいだな」
要さんは、いつも通り、そっけない返事をした。だけど、心なしか、少し口の端が上がっている気がした。
「初めての海外なんですよね、私」
「パスポートは持ってるのか」
「一応、あります。研究室入る時に、先生が念のため作っとけって」
「うわ、だいぶ前からロックオンされてたな」
「ロックオン?」
宮之原先生がしれっと言っていた言葉が、今になって頭の中で繋がる。
――発表準備、瀬戸くん一人だと大変でしょう。
「……えっ」
「今、気づいたのか」
「つまり、先生の発表の、手伝い要員てことですか?」
要さんが、ニヤッと笑う。
「俺、当日急用思い出すかもだから、そしたら後よろしく」
「ちょっと!」
こういう、ちょっとした掛け合いが、私は結構好きだ。要さんは、いつも淡々としているのに、たまにこうやって、ちょっとだけ意地悪くツッコんでくる。それが嫌じゃないというか、むしろ――
「早めに準備しとけよ。手続きとか、意外と時間かかる」
「はい」
「分からないことあったら」
「聞いていいんですか?」
「……よくないと言ったとしても、聞いてくるだろ、どうせ」
その言い方が、なんだかちょっと素っ気なくて、でも面倒見が良くて、要さんらしいなと思った。
◇
その夜、家に帰ってから、私はスマホで、行き先のことを色々調べてみた。
古い遺跡の写真、乾いた土地の風景。見たこともない景色なのに、なぜだろう、写真を眺めているだけで、胸の奥がざわざわする。
――なんでだろう。
昔から、そうだった。世界史の教科書で見た時から、この地域の景色は、なぜか私の胸を強く掴んで離さなかった。吸い寄せられるように学部を選び、この研究室に入ると決めた。「懐かしい」なんて、変な感覚だと自分でも思う。でも、あの時要さんが「なんか、分かる気がする」って言ってくれたことを、今でもよく覚えている。
あの一言が、どれだけ嬉しかったか。要さんは、多分、気づいていないと思うけど。
最近、要さんのことを考えると、心のどこかが、くすぐったくなる。布団に入ってから、ふとその顔を思い出しては、勝手に頬が緩んで、一人で慌てて枕に顔を埋めることもある。
いつも涼しい顔をしているくせに、たまに、ちょっとだけ意地悪なことを言う。それが地味に効いて、悔しいのに、なぜか嬉しくもある。
面倒見が悪いふりをして、結局、最後まで付き合ってくれる。呆れた顔をしながら、絶対に途中で放り出さない。そういうところ、ずるいと思う。
この間、飲み会の帰り道、お酒で耳まで赤くなっていた要さんを見た時も、なんだか胸がざわざわした。いつも一歩引いて、涼しい顔をしている人が、ふとした瞬間に見せる隙。あんな顔、他の人には見せてないんじゃないかって、勝手にそう思って、それだけで嬉しくなってしまう自分がいた。
こういうのを、好きって言うんだろうか。
まだ、うまく言葉にする勇気はないけれど。
「……楽しみだな」
私は、写真をもう一枚めくりながら、そう呟いた。
要さんと一緒に、あの景色を見に行く。
そう考えるだけで、なんだか、いつもより少しだけ、眠りにつくのが惜しい気分だった。




