第6話|揺らぎ
その日は、織本麻朱の発表資料が思いのほか難航していた。
「これ、先生に突っ込まれそうな箇所、山ほどあります……」
「見せてみろ」
パソコンの画面を覗き込みながら、二人でスライドを直していくうちに、気づけば時計は九時を回っていた。
「あ、もうこんな時間」
「今日も俺らが最後か」
「みたいですね」
荷物をまとめながら、彼女が小さく伸びをする。もう慣れた手順で、二人で戸締まりを済ませ、鍵を返しに歩き出した。
鍵を返しに行くのも、自販機でその日の一本を選び合うのも、いつの間にか、当たり前の日課になっていた。
「今日は、どれにしましょうか」
彼女が、いつものように自販機の前で立ち止まる。
「暑いし、麦茶でいいだろ」
「安直ですね」
「安直で悪いか」
そんなやり取りにも、もう驚かなくなっている自分がいる。数ヶ月前は、彼女に押し切られる形で始まった習慣だったはずなのに、今では、この時間がないと、一日が終わった気がしないくらいだった。
「織本さんは今日はこれだな」
俺が先にボタンを押すと、彼女は不満げな声を上げた。
「え? ブラックコーヒー? 私、カフェラテ派なのに」
「これから帰って、文献もう一本読むんだろ」
「そうですけど」
「また、口開けて寝かねないからな」
「ひどい!」
彼女が、頬を膨らませながらパンチを繰り出してくる。俺は、それを軽くいなしながら、缶を彼女に押し付けた。
「橘さんも、このみも、お前の寝顔にはもう慣れたって言ってたぞ」
「え、みんな見てるんですか!?」
「わりと有名だぞ」
「うそでしょ……」
◇
彼女が、コーヒーの缶を開けながら、ふと言った。
「あ、そういえば」
「なんだ」
「要さんも、下の名前でいいですよ」
「……え?」
「橘さんも、このみさんも、下の名前で呼んでくれてますし。そのほうが呼びやすいからって。」
下の名前――麻朱。
その響きが、頭の中で、静かに別の名前に変わった。
――マアカ。
いや、それだけは、無理だ。
「……恥ずかしいから、嫌だ」
俺は、誤魔化すように、そう言った。
「え、なんですか、その理由」
彼女が、目を丸くする。
「ちょっと、突然かわいいこと言うの、やめてください」
「言ってない」
「言いました、今」
彼女は、口では文句を言いながらも、どこか楽しそうに笑っていた。
俺の心臓が、うるさいくらい速く鳴っていることには、気づかれていないはずだった。
◇
マアカ様は、私的な場では、よく砕けた口調で俺に接した。
「セタルったら、そんなに畏まらないでよ」
執務の合間、陛下も交えて三人で過ごす時間などに、マアカ様はしばしばそう言って、俺との距離を縮めようとした。
「王妃様に対して、礼を欠くわけには参りません」
「誰も見てないのに?」
「見ていなくとも、けじめは、けじめです」
陛下が、その様子を見て、苦笑した。
「無駄だぞ、マアカ。子供の頃から、何度言ってもセタルは崩さない」
「でも、エイエルが言うのと、私が言うのとでは、違うかもしれないじゃない」
マアカ様は、なおも食い下がった。
「セタル、私が頼んでも、だめ?」
「……申し訳ございません」
「セタルは、頑固ね」
「恐れ入ります」
それでも、俺は最後まで、その一線を崩さなかった。王妃と臣下という立場は、誰に見られていなくとも、俺自身が保つべきものだと思っていたからだ。
マアカ様が、どれほど気安く接してくれても――その一線だけは、俺の意思で、守り続けた。
◇
自販機の灯りに照らされた彼女の横顔を見ながら、俺は思う。
あの時と、同じことを言われている。
それなのに、あの時はあれほど揺るがなかった一線が、今は、ひどく心許ない。
「今日のコーヒー、苦すぎます」
彼女が、顔をしかめながら文句を言う。
「体、起こしとけよ」
「さすがの私も、立ったままは寝ません」
そのやり取りに、俺は思わず、声を出して笑った。自販機の灯りの下で、彼女も釣られたように笑っている。
――マアカ様として扱おうとする方が、今は、よほど不自然に思える。
そんな考えが、頭の片隅をよぎって、俺は自分で少し驚いた。
目の前で、苦い顔をしながらコーヒーを飲み干している彼女は、どこからどう見ても、ただの織本麻朱だった。
その事実を、この頃の俺は、もう拒みきれなくなっていた。




