↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
6/31

第6話|揺らぎ

その日は、織本麻朱(おりもとまあか)の発表資料が思いのほか難航していた。


「これ、先生に突っ込まれそうな箇所、山ほどあります……」


「見せてみろ」


パソコンの画面を覗き込みながら、二人でスライドを直していくうちに、気づけば時計は九時を回っていた。


「あ、もうこんな時間」


「今日も俺らが最後か」


「みたいですね」


荷物をまとめながら、彼女が小さく伸びをする。もう慣れた手順で、二人で戸締まりを済ませ、鍵を返しに歩き出した。


鍵を返しに行くのも、自販機でその日の一本を選び合うのも、いつの間にか、当たり前の日課になっていた。


「今日は、どれにしましょうか」


彼女が、いつものように自販機の前で立ち止まる。


「暑いし、麦茶でいいだろ」


「安直ですね」


「安直で悪いか」


そんなやり取りにも、もう驚かなくなっている自分がいる。数ヶ月前は、彼女に押し切られる形で始まった習慣だったはずなのに、今では、この時間がないと、一日が終わった気がしないくらいだった。


「織本さんは今日はこれだな」


俺が先にボタンを押すと、彼女は不満げな声を上げた。


「え? ブラックコーヒー? 私、カフェラテ派なのに」


「これから帰って、文献もう一本読むんだろ」


「そうですけど」


「また、口開けて寝かねないからな」


「ひどい!」


彼女が、頬を膨らませながらパンチを繰り出してくる。俺は、それを軽くいなしながら、缶を彼女に押し付けた。


「橘(たちばな)さんも、このみも、お前の寝顔にはもう慣れたって言ってたぞ」


「え、みんな見てるんですか!?」


「わりと有名だぞ」


「うそでしょ……」


◇


彼女が、コーヒーの缶を開けながら、ふと言った。


「あ、そういえば」


「なんだ」


「要(かなめ)さんも、下の名前でいいですよ」


「……え?」


「橘さんも、このみさんも、下の名前で呼んでくれてますし。そのほうが呼びやすいからって。」


下の名前――麻朱(まあか)。


その響きが、頭の中で、静かに別の名前に変わった。


――マアカ。


いや、それだけは、無理だ。


「……恥ずかしいから、嫌だ」


俺は、誤魔化すように、そう言った。


「え、なんですか、その理由」


彼女が、目を丸くする。


「ちょっと、突然かわいいこと言うの、やめてください」


「言ってない」


「言いました、今」


彼女は、口では文句を言いながらも、どこか楽しそうに笑っていた。


俺の心臓が、うるさいくらい速く鳴っていることには、気づかれていないはずだった。


◇


マアカ様は、私的な場では、よく砕けた口調で俺に接した。


「セタルったら、そんなに畏まらないでよ」


執務の合間、陛下も交えて三人で過ごす時間などに、マアカ様はしばしばそう言って、俺との距離を縮めようとした。


「王妃様に対して、礼を欠くわけには参りません」


「誰も見てないのに?」


「見ていなくとも、けじめは、けじめです」


陛下が、その様子を見て、苦笑した。


「無駄だぞ、マアカ。子供の頃から、何度言ってもセタルは崩さない」


「でも、エイエルが言うのと、私が言うのとでは、違うかもしれないじゃない」


マアカ様は、なおも食い下がった。


「セタル、私が頼んでも、だめ?」


「……申し訳ございません」


「セタルは、頑固ね」


「恐れ入ります」


それでも、俺は最後まで、その一線を崩さなかった。王妃と臣下という立場は、誰に見られていなくとも、俺自身が保つべきものだと思っていたからだ。


マアカ様が、どれほど気安く接してくれても――その一線だけは、俺の意思で、守り続けた。


◇


自販機の灯りに照らされた彼女の横顔を見ながら、俺は思う。


あの時と、同じことを言われている。


それなのに、あの時はあれほど揺るがなかった一線が、今は、ひどく心許ない。


「今日のコーヒー、苦すぎます」


彼女が、顔をしかめながら文句を言う。


「体、起こしとけよ」


「さすがの私も、立ったままは寝ません」


そのやり取りに、俺は思わず、声を出して笑った。自販機の灯りの下で、彼女も釣られたように笑っている。


――マアカ様として扱おうとする方が、今は、よほど不自然に思える。


そんな考えが、頭の片隅をよぎって、俺は自分で少し驚いた。


目の前で、苦い顔をしながらコーヒーを飲み干している彼女は、どこからどう見ても、ただの織本麻朱だった。


その事実を、この頃の俺は、もう拒みきれなくなっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。