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第5話|敬愛

夏になったばかりの、暑気払いの夜だった。


「お疲れー! 今日は飲むぞー!」


研究室の飲み会は、橘(たちばな)さんの一声で始まるのがお決まりだった。ポスドクという肩書きの割に、一番賑やかなのがこの人だ。テーブルには、俺と、橘さん、学部四年の森下(もりした)このみ、そして織本麻朱(おりもとまあか)が並んでいた。このみは、織本さんより一つ学年が上で、この一年、俺が何かと面倒を見てきた後輩でもある。


「いやー、よかったよ、要(かなめ)が来れて」


橘さんが、ジョッキを掲げながら言った。


「要さん、結局締切間に合ったんですか?」


このみが、横から茶々を入れる。


「ぎりぎり」


「相変わらずだなあ、お前」


橘さんが、笑いながら俺の肩を叩いた。


「宮之原(みやのはら)先生は?」


織本さんが聞くと、橘さんは笑って手を振った。


「先生は、いつも通り。誘っても『論文があるから』って。もう五年、その言い訳聞いてる気がする」


宮之原先生が飲み会に顔を出さないのは、もはや研究室の伝統のようなものだった。


「要さん、お代わりします?」


織本さんが、当然のようにそう聞いてきた。


「……ああ、頼む」


いつの間に、瀬戸さんではなく、要さんと呼ぶようになったのか、正直、はっきりとは覚えていない。橘さんと、このみのせいだ、と勝手に決めつけることにしている。


「そういえば、要って、いつ見ても崩れないよな」


俺のジョッキが空になったのを見計らったように、橘さんが唐突に言った。


「揺るがないっていうか。俺なんて、指導教員に詰められたら三日は凹むのに」


「別に、そんなことは」


「あるよ。俺、要が本気で焦ってるとことか、見たことない」


このみも、それに乗っかるように口を開いた。


「要さんって、動揺することとか、弱音吐いちゃうこと、ないんですか?」


無邪気な質問だった。悪気があるわけでもない、ただの興味からの一言。


「……さあ。あるんじゃないか、俺にも」


俺は、それだけ答えて、グラスに口をつけた。本当は、答えになっていない答えだと分かっていた。


弱音を、最後に誰かに見せたのは、いつだっただろう。


――現世では、一度もない。


そして前世でも、それを見せられる相手は、たった一人しかいなかった。


◇


セタルとして生きていた頃、俺は誰の前でも、隙を見せないよう努めていた。高官の家に生まれ、殿下の側近として育てられた身だ。弱さを見せることは、そのまま殿下の足元を危うくすることに繋がる、と信じていた。


だから、俺がどれほど疲弊していても、誰もそれに気づかなかった。気づかせないようにしていた、と言った方が正しい。


ただ一人を除いて。


ある夜、俺は執務室で、山のような書類を前に、一人で座り込んでいた。王位継承をめぐる情勢は日に日に緊迫し、俺の肩には、殿下からの信頼と、父の家門の期待と、いくつもの重みがのしかかっていた。


――このまま、殿下をお支えしきれるのだろうか。


そんな弱気が、珍しく頭をよぎった夜だった。


「セタル」


声をかけられて顔を上げると、殿下が、扉の前に立っていた。


「こんな時間まで、何をしている」


「……殿下こそ。もうお休みになる時間かと」


「お前の部屋の灯りが、遅くまで消えないのが気になった」


殿下は、そう言って、俺の向かいに腰を下ろした。


「セタル。お前は、俺の前でだけは、格好つけなくていい」


その一言に、俺は、しばらく何も言えなかった。


誰にも見せたことのない弱さを、殿下にだけは、隠しきれなかった。俺がどれほど気を張っていても、殿下は決まって、それに気づいた。そして、決まって、それを咎めなかった。


俺の弱音を知っていたのは、この世で、殿下ただ一人だった。


それが、どれほど俺を救っていたか、殿下自身は、きっと気づいていなかっただろう。


◇


だからこそ――マアカ様という存在が、殿下の隣に現れた時、俺の喜びは、誰よりも深かったと思う。


殿下は、俺にだけは弱さを見せてくださった。だが、それでも、殿下自身が寄りかかれる相手は、俺ではなかった。臣下である俺には、支えることはできても、殿下の孤独そのものを分かち合うことはできない。


殿下は、ずっと、たった一人で立ち続けていた。


それが、マアカ様という方によって、初めて変わった。


殿下が、あの人の前でだけ見せる、力の抜けた笑い方を、俺は何度も目にした。あれほど自分を律してきた殿下が、誰かの前で、肩の力を抜いている。


俺はそれを見るたびに、心の底から思った。


――ようやく、殿下に安らげる場所ができた。


自分がその役目を担えないことを、寂しいと思ったことは一度もない。ただ、ひたすらに、嬉しかった。長年、たった一人で国を背負い続けてきたあの方に、ようやく寄りかかれる誰かができたのだから。


俺は、その日から、殿下とマアカ様、お二人を、何としてもお守りしたいと、心から願うようになった。


◇


「要ー? 聞いてる?」


橘さんの声で、我に返った。


「あ……すみません、ぼーっとしてました」


「珍しいな。お前がぼーっとするとか」


「たまにはします」


俺がそう言うと、橘さんとこのみは、顔を見合わせて笑った。


「案外あるんじゃん、隙」


さらに酒が進み、場の空気が緩んだ頃、このみが、唐突に織本さんの方を向いた。


「ねー、麻朱って付き合ってる人とかいないの?」


「おい、このみ、今どきそういうのはセクハラだぞ」


橘さんが、すかさず横槍を入れる。


「ええっ、こういうのもだめなの!?」


織本さんは、ふふっと笑って、あっけらかんと答えた。


「居たことないんです、彼氏とか」


「ええっっ! かわいいのに!」


「だからセクハラだって」


「うそ!?」


橘さんが、苦笑しながら口を挟んだ。


「まあ、麻朱ならそのうち、いい人見つかるだろ」


「ちょっと待って! 今のはセクハラじゃないの!?」


このみと橘さんの掛け合いに、織本さんも声を上げて笑っている。その空気の中で、俺は、なぜか、ほっと息をついていた。


――なんで、ホッとしたんだ、俺は。


俺は自分に問いかけて、すぐに、都合のいい答えを用意した。


マアカ様は、エイエル陛下だけのもの。


だから、それが、今のところ何にも侵されていないことに、安堵しただけだ。


それ以外に、理由なんてない。


そう、自分に言い聞かせた。


◇


飲み会がお開きになり、駅までの道のりが同じだったこともあって、気づけば、彼女と二人きりになっていた。


「要さん、大丈夫ですか?」


「……何が」


「実は、結構酔ってますよね。お水、買ってきます?」


「……いや、大丈夫」


俺は、努めてそっけなく答えた。だが彼女は、疑わしそうに、こちらの顔を覗き込んでくる。


――前世では、こんなふうに気づいてくれるのは、殿下だけだった。


弱さを隠しているつもりでも、決まって見抜かれた。そして、それを見抜けるのは、この世でただ一人だけだと思っていた。


今度はそれを、あなたがするのですか。マアカ様。


「あ、ほら、耳も赤い」


彼女が、悪戯っぽく笑って、俺の耳を指差した。


その赤さが、酒のせいなのか、それとも別の何かのせいなのか――俺自身にも、よく分からなかった。

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― 新着の感想 ―
殿下がマアカ様に対する純粋で深い敬愛の想いが伝わってきてきます。 自分の変化や弱さを、麻朱がさらりと見抜いて覗き込んでくるシーンの緊張感がとてもいいですね! 二人の関係が今後どう変わっていくのか続…
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