第4話|一人の人間
その日も、織本麻朱は研究室に遅くまで残って、課題に追われていた。
九時を回った頃、ようやく彼女がパソコンを閉じる音がした。
「すみません、今日も遅くなっちゃって……」
俺は自分の作業を終えて、荷物をまとめながら言った。
「いいよ、俺が鍵閉めとくから、先に帰って」
いつも通りのつもりだった。誰か一人が最後まで残るなら、まとめて鍵を閉めて帰る。それだけの話だ。
だが、彼女は思いのほか、きっぱりと首を振った。
「ダメです。今日は私のせいで瀬戸さんも遅くなったんですから、私が閉めます」
「いや、いいよ。警備室までの道、暗いし」
「だめです」
有無を言わせない口調だった。俺は少し面食らいながら、それ以上食い下がる隙も与えられないまま、結局、二人で戸締まりを済ませ、鍵を返しに行くことになった。夜の廊下は静かで、二人分の足音だけが、やけに大きく響いていた。
「別に、俺は気にしてないんだけど」
「私が気にするんです」
彼女は、それだけ言って、少し先を歩いていく。俺は、その後ろ姿を見ながら、妙な感覚に襲われていた。
――頼られることには慣れている。誰かを気遣うことにも。だが、こうして誰かに、こちらの都合を気にかけられることには、ひどく不慣れだった。
警備室に鍵を返す道すがら、彼女は自動販売機の前で、ふと足を止めた。
「あ。そうだ」
そう呟きながら、指を差してぶつぶつと呟き始める。
「麦茶か……ほうじ茶か……あ、ルイボスティーもある」
「何してるんだ」
「瀬戸さんなら、どれがおすすめですか?」
急に話を振られて、俺は面食らいながら答えた。
「……この中だと、ほうじ茶かな」
「はい、決まり」
彼女はガチャンとボタンを押して、取り出し口から缶を拾い上げると、それをそのまま俺に差し出した。
「はい、どうぞ」
「え? 俺の?」
「だって瀬戸さん、いっつもエナジードリンク飲んでるじゃないですか。体壊しますよ」
「別に頼んでない」
「頼まれてなくても、あげます」
有無を言わせないところは、さっきの鍵の件と同じだった。俺は仕方なく、それを受け取った。
「……悪くないな」
「でしょう?」
彼女は満足げに笑った。
◇
夜道を歩きながら、俺はふと考える。
なぜ、こんなにも落ち着かないのだろう。
彼女は、ただ普通に、後輩として先輩を気遣っているだけだ。それ以上でも、以下でもない。頭では、そう分かっている。
――彼女は、マアカ様なんだ。
心の中で、そう繰り返す。エイエル陛下がただ一人愛し、生涯を共にした、あの方の妃。俺が守り、支えるべき対象であって、それ以上の感情を向けていい相手ではない。
だが、今、俺の胸をざわつかせているのは、王妃としてのマアカ様の記憶ではなかった。「私が気にするんです」と、頑固に言い張った、あの顔だ。
◇
マアカ様が、まだ王妃として認められて間もない頃、宮廷内での彼女の評判は、正直なところ、あまり芳しいものではなかった。
「王妃様の仰ることは、面白いが、現実的ではない」
重臣の一人が、そう言って笑ったことがある。マアカ様が、南の州の水利について、独自の案を出した時のことだ。
「灌漑の専門家でもない方が、思いつきで口を出されても」
その場にいた誰もが、うっすらと同意するような空気を作っていた。マアカ様自身も、それ以上は食い下がらず、ただ黙って引き下がった。
俺は、その夜、彼女の案をもう一度、資料と照らし合わせて検討した。
結果として分かったのは――彼女の案は、確かに専門家の理論からは外れていたが、その土地特有の地形を踏まえれば、十分に実現可能なものだった。むしろ、既存の技術者たちが見落としていた視点さえ含んでいた。
俺は、それを陛下に進言し、後日、正式にマアカ様の案として採用されることになった。
「セタル、なぜ、あなたは私の話を、ちゃんと聞いてくれるの?」
ある日、マアカ様にそう尋ねられたことがある。
「王妃様の発想には、価値があります。それを、王妃という立場だけで判断するのは、もったいないことです」
俺は、ただそう答えた。
マアカ様は、少し驚いたような顔をして、それから、柔らかく笑った。
「セタルは、私を、ちゃんと一人の人間として見てくれるのね」
その言葉を、俺は今でも、はっきりと覚えている。
◇
夜道の先で、彼女が振り返った。
「瀬戸さん、置いてっちゃいますよー」
「……悪い」
俺は、少し早足で追いついた。
彼女は、何も知らない。俺が今、何を思い出していたのかも、なぜ黙り込んでいたのかも。
それでも――彼女もまた、俺を「頼れる先輩」としてではなく、ただの一人の人間として、案じてくれている。
その事実だけが、今の俺には、ひどく落ち着かなくて、そして――少しだけ、嬉しかった。




