第3話|不覚
うちの大学は、とにかくキャンパスが広い。文系棟から理系棟まで自転車で十分近くかかるし、講義の合間の十五分休みでは、正直、走っても間に合わないことがある。
織本麻朱は、そこに輪をかけて方向音痴だった。
「瀬戸さん、すみません、ちょっと道に迷ってしまって……」
その日、彼女は指導教員の宮之原先生に頼まれて、別棟の図書館まで資料を借りに行っていた。もう戻ってきてもいい頃合いなのに、と思っていたところに電話が来て、俺は少し身構えた。
「今、どこにいる?」
「えっと……大きい木があって、その隣に、変な形のオブジェがあります。あと、鳥がいっぱいいます」
「……いや、それだけじゃ、キャンパスのどこにいるか分からない」
「そうですよね……あ、遠くにグラウンドっぽいのが見えます!」
うちのキャンパスには、グラウンドが三つある。
俺は思わず、声を出して笑ってしまった。電話の向こうで、彼女が「え、なんで笑うんですか、ちゃんと頑張って説明してるのに」と、心外そうな声を上げる。それがまた面白くて、俺はしばらく笑いが止まらなかった。
文献を読む速度も、データの整理も、彼女は決して要領が悪いわけではない。むしろ理解は早いほうだと思う。それなのに、なぜこの広いキャンパスの中で、毎回まったく違う場所に迷い込んでいくのか、俺には見当もつかなかった。
結局、俺が迎えに行く羽目になった。
「すみません、ありがとうございます……」
しゅんとした顔で謝る彼女に、俺は「次からは、まず建物の名前を確認しろ」とだけ言っておいた。
だが、正直なところ――悪くない気分だった。
◇
その週の金曜日、夜も更けた頃、研究室に残っていたのは俺と彼女だけだった。彼女は締め切り間近の課題に追われていて、椅子ではなく、部屋の隅に置かれた小さなソファに移動して作業を続けていた。
しばらくして、キーボードを叩く音が止んでいることに気づいた。顔を上げると、彼女は壁にもたれかかるようにして、眠っていた。
行儀の良い寝方ではない。頭が斜めに傾いて、口が少し開いている。パソコンの明かりに照らされたその顔は、普段のハキハキした様子とはまるで違う、ただ無防備な、一人の人間の顔だった。
――マアカ様は、絶対にこんな寝方はなさらなかった。
そう思った瞬間、自分でも驚くくらい、胸の奥が締め付けられた。
王妃という立場は、たとえ私的な時間であっても、彼女に一定の隙のなさを強いていた。マアカ様がどれほど型破りな人であっても、誰かの前で、こんなにも無防備な顔を晒すことはなかった。それは彼女の意志というより、そういう場所に生きていたから、としか言いようがない。
だが、目の前で眠っているこの人は――誰に見られることも気にせず、ただ疲れて、ただ眠っている。
不覚にも、見とれてしまった。
◇
エイエル殿下が、マアカ様に初めて心を動かされた瞬間のことを、俺は今もよく覚えている。
殿下は、理想の治世には、それを支えるにふさわしい妃が必要だと考え、長らく后を娶ろうとしなかった。周囲がいくら縁談を勧めても、「釣り合う者が現れるまでは」とだけ言って、頑として応じなかった。
だから、マアカ様と初めて言葉を交わした夜のことは、俺にとっても意外な出来事として記憶に残っている。
隣国からの使節を迎える宴の席で、諸侯たちは条約の細部をめぐって、互いの腹の内を探り合うような、回りくどい駆け引きを繰り広げていた。誰もが自国の利益を計算し、言葉を選び、本音を隠している。殿下も、その空気の中で、いつも通り注意深く相手の意図を読みながら受け答えをしていた。
その席に、とある地方領主の娘として招かれていたマアカ様が、悪気もなく口を挟んだ。あの日が、殿下とマアカ様の、初めての出会いだった。
「その条約を結んだら、名もない村の人たちの暮らしは、結局どう変わるんですか?」
その場に、一瞬、静寂が落ちた。
政治の作法など何一つ知らないマアカ様の問いは、洗練さとは程遠かった。それでも、誰一人として、その場でその問いを口にしなかった。皆、駆け引きに気を取られて、そもそも「誰のための条約か」という一番単純な問いを、忘れかけていたのだ。
殿下は、一瞬、呆気に取られたような顔をして――それから、声を上げて笑った。
俺は、殿下があんなふうに、人前で無防備に笑うところを、それまで見たことがなかった。
それから幾月か経ち、殿下とマアカ様が互いに惹かれ合っていることは、宮廷の誰の目にも明らかになっていた頃。ある夜、殿下はぽつりと俺に言った。
「セタル、俺はあの日、あいつに救われた気がする」
「……救われた、とは」
「ずっと、誰の言葉も、裏を読まずに聞けなかった。あいつの言葉には、裏がない。ただ、まっすぐに、大事なことを見ている」
殿下は、少し笑って続けた。
「それに、よく聞けば、あいつが見ているものは、俺と同じだ。民の暮らし、この国の行く末。飾らない分だけ、まっすぐにそこへ向かっている」
それは、俺が幼い頃に殿下からかけられた言葉と、同じ響きを持っていた。
――俺と同じ景色を見て、同じ国を作りたいと思ってくれる者だ。
あの言葉を、殿下はずっと、伴侶にも求め続けていたのだと、俺は改めて思い知った。
◇
彼女は、しばらくして自分でハッと目を覚まし、慌てて口元を拭った。
「わ、私、寝てました?」
「ああ。だいぶ気持ちよさそうに」
「うそ、恥ずかしい……見てたなら起こしてくださいよ!」
真っ赤になって抗議する彼女を見ながら、俺は小さく笑った。
――かつての主君が生涯唯一愛した妃、マアカ様の、生まれ変わり。そうは分かっているのに。
方向音痴で、居眠りをして、頬を膨らませて怒る、ただの織本麻朱という人間に、俺は今日、不覚にも、心を掴まれていた。
エイエル殿下が味わったものと、同じ種類の感情なのだとしたら――それは、少し困ったことかもしれない。
そう思いながらも、俺は、その困った気持ちを、うまく手放せずにいた。




