第2話|麻朱
配属されて一週間も経たないうちに、織本麻朱は俺のところへ、ひっきりなしに質問を持ってくるようになった。
「瀬戸さん、これ、専門用語が多すぎて何言ってるか分からないです……」
広げた論文のコピーを指差しながら、彼女は本当に困った顔をする。
「この文献検索システム、どう使うんですか? さっきから全然、目当てのものが出てこなくて」
かと思えば、次はデータベースの画面を覗き込んで首をひねっている。遠慮というものが、まるでない。もっとも、彼女に限った話ではなく、配属されたばかりの学生なら誰でもそうなるものだとは分かっている。
それでも――俺は時々、質問に答えながら、小さく笑いそうになる自分に気づいていた。
ああ、あの頃と変わっていない。
前世でも、あの人はこうだった。分からないことがあれば、恥じることなく、まっすぐに聞いてくる。相手が誰であろうと、そこに遠慮という壁を作らない。当時、俺はその屈託のなさに何度も振り回されたし、正直、面倒だと思うことも少なくなかった。
それなのに、今、同じように振り回されていることが――なぜだろう、悪くない気分だった。
「瀬戸さん? 聞いてます?」
彼女に顔を覗き込まれて、俺は我に返った。
「聞いてる。ここのキーワード検索、AND条件で絞りすぎてるからヒットしないんだ。もう少し緩めてみるといい」
「あ、ほんとだ! ありがとうございます」
彼女は素直に礼を言って、また画面に向き直った。その横顔を見ながら、俺はふと思う。
――この頼られ方に、覚えがある。
覚えがあるどころではない。かつての俺は、これを生業にしていたようなものだった。
彼女がまた次の資料に目を落としている隙に、俺の意識は、いつの間にか遠い記憶に引き込まれていった。
◇
マアカ様は、エイエル殿下のもとに嫁いでこられたばかりの頃、政治のことなど何一つ知らなかった。宮廷の作法にも慣れきらないまま、それでもあの人は、物怖じというものを知らなかった。
「セタル、これは何のための書類なの?」
初めて執務室に足を運んできたあの日、マアカ様は臆面もなく、俺の手元の書類を覗き込んできた。
「これは、南の州から届いた税収の報告書です。今年は例年より、いくらか多く収穫があったようで」
「へえ。じゃあ、その分を、困っている村に回してあげたらいいんじゃない?」
あまりにあっさりと言われて、俺は思わず言葉に詰まった。
「そう単純な話でもないのです。税というのは、まず――」
俺はその日、半日近くをかけて、税制の仕組みと、それがどのように民の暮らしに繋がっているかを説明する羽目になった。マアカ様は、途中で幾度も「それ、じゃあこうしたら?」と口を挟んでは、俺の話の腰を折った。
それでも、不思議なことに、その思いつきの中には、時折、はっとするような発想が混じっていた。
「妃殿下は、筋がよろしい。ただ、口を挟まれる前に、まず最後まで聞いていただけると助かります」
俺がそう言うと、マアカ様は悪びれもせずに笑った。
「だって、聞きながら思いついちゃうんだもの。あなたが整理してくれるから、私は思いついたことを、どんどん言えるんじゃない」
その理屈は、褒められているのか、都合よく使われているのか、判然としなかった。
だが――今にして思えば、あれが二人の始まりだったのかもしれない。
思いつく人と、それを整理する人。
その形は、時代も、名前も変わった今も、少しも変わっていないらしい。
◇
「そういえば、瀬戸さんって、なんで西アジア史専攻にしたんですか?」
彼女の声で、我に返った。
不意打ちのような質問に、俺は一瞬だけ言葉に詰まった。
「……なんとなく」
本当は、なんとなくではない。この分野を選んだのは、前世の記憶がある俺だからこそ、確かめたかったことがあったからだ。あの国が実在した土地なのか、あの国の統治の仕組みと似たものが、この世界のどこかの歴史に残っていないか――最初はそれを、半ば本気で調べるつもりだった。
調べれば調べるほど、地理も、時代も、微妙に噛み合わないことばかりだと分かっていった。あの国は、この世界のどこにも存在しない。それでも、似た構造を持つ古代国家の記録を追いかけていると、不思議と心が凪ぐような感覚があった。それが今の研究テーマを選んだ、本当の理由だった。
もちろん、そんなことを誰かに話すつもりはない。
「なんとなく、で専攻決めたんですか。すごいですね」
彼女は感心とも呆れともつかない声を上げた。
「織本さんは? なんでうちの研究室にしたんだ」
「私は……どうしても、惹かれちゃって。なんか、なぜか懐かしいっていうか」
彼女は少し照れたように笑って、頭を掻いた。
「おかしいですよね。全然知らない土地なのに」
俺は、その言葉に、内心だけでひどく動揺していた。
彼女は、何も覚えていない。それは分かっている。それでも、彼女の中の何かが、まだ言葉にならないまま、あの土地の気配を覚えている――そんな気がしてならなかった。
「……なんか、分かる気がする」
口をついて出た言葉に、自分でも驚いた。柄にもなく、踏み込みすぎた。
彼女は一瞬、きょとんとした顔をして、それから、くしゃっと笑った。
「……そう言ってもらえたの、初めてです」
嬉しそうな、その笑い方を見ながら、俺は思う。
分かってもらえたことが、こんなにも嬉しいのか。
マアカ様は、誰かに「分かる」と言われることに、飢えていなかった。
――魂は同じでも、彼女が生きているのは、あの人とは違う人生なんだ。
そんな当たり前のことを、今更のように、俺は思い知った。




