第1話|要
生まれたときから、前世の記憶があった。
現世の俺は、日本のごく普通の家庭に生まれた。名前は、要。
皮肉なものだ。
前世でも俺は、よく「国の要」と呼ばれていた気がする。
もっとも、当時の俺にそう呼びかけていた人間はもう、どこにもいない。あの国はどんな地図にも載らず、あの言葉を話す者も、あの空の色を知る者も、この世界のどこにも存在しない。あるとすれば、それは俺の中だけだ。
俺はそれを、誰にも話したことがない。話したところで、誰も信じないだろうし、信じられたところで、何がどうなるわけでもない。前世の記憶というのは、そういう類のものだ。抱えて、時々取り出して、また仕舞う。ただそれだけの、静かな荷物。
だから俺は、前世の記憶があるという事実そのものよりも、それをどう扱うかという点において、わりあい落ち着いていたと思う。少なくとも、あの春が来るまでは。
◇
三月の終わり、修士生活も残り一年というところで、俺は研究室に新しい後輩が入ると聞かされた。指導教員の宮之原先生は、いつもの調子で「今年は学部の子が一人配属になるから、瀬戸くん、頼むね」とだけ言って、あとは本当に何も言わなかった。この人は昔からこうだ。任せると決めたら、本当に何もかも任せる。おかげでこの研究室の実務は、だいたい俺のところに集まってくる。
「瀬戸くん、頼むね」
その一言だけで、俺はまた仕事が増えるのだろうと、半ば諦めながら思っていた。
新歓の日、研究室の扉が開いて、その後輩が入ってきた。
「初めまして、織本麻朱です」
思考が、止まった。周りの声も、空調の音も、一瞬、すべてが遠のいた気がした。
顔立ちはまるで違う。人種すら違う。声も、話し方も、この現代日本に生まれ育った、ごく普通の大学生のものだった。
それでも――分かった。
面影が、あまりにも似ている。まなざしの動かし方、笑うときにわずかに上がる口の端、そして何より、この場に踏み込んでくるときの、あの物怖じのなさ。声そのものは違うのに、その奥にある響き方が、あの人のものと同じだった。
――あの方だ。
疑いようもなかった。前世の記憶は、俺の中で少しも色褪せていない。あの人の顔も、声も、共に過ごした時間の一つ一つも、今この瞬間のことのように鮮明に思い出せる。だからこそ分かる。目の前にいるこの後輩は、間違いなく、あの王妃陛下の生まれ変わりだ。
「よろしくお願いします、瀬戸さん」
彼女は屈託なく笑って、頭を下げた。
俺は、うまく声が出なかった。
現世というものは、前世とは何の関わりもない、まっさらな人生のはずだった。少なくとも、生まれてからこれまでの二十四年間、俺はそう思って生きてきた。前世の記憶は、俺一人が抱える、誰にも共有されることのない過去の遺物だと。
それなのに――
その過去を生きた人が、今、何も知らない顔で、目の前に立っている。
ずっと昔の記憶が、静かに浮かび上がってきていた。
まだ王子と呼ばれていた、あの人の記憶が。
◇
俺の父は、あの国で高官を務めていた。だから俺は、物心つく前から宮廷に出入りし、年の近い王子――後のエイエル陛下――と共に、同じ師のもとで学んで育った。
半ば、幼馴染のようなものだったと思う。
エイエル殿下は、子供の頃から少し変わっていた。
同じ年頃の貴族の子弟たちが、狩りや剣の稽古に夢中になっている間、あの方はよく、一人で書庫にこもっていた。俺が呼びに行くと、決まって分厚い書物を広げていて、こちらを見もせずにこう言うのだ。
「セタル、知っているか。北の州では、去年の不作でまだ税が払えていない村がある」
子供が口にするには、あまりに不釣り合いな話題だった。俺は最初、それが何を意味するのかも分からず、ただ黙って聞いていた記憶がある。
「父上は、それを罰するべきだと仰る。だが、払えないものを罰したところで、何も変わらないだろう」
エイエル殿下は、そう言って、俺に向き直った。
「俺が王になったら、飢えて払えない者を罰するような国にはしない。誰も飢えず、長く、平和が続く国を作る」
子供の言葉だ。今にして思えば、青臭く、あまりに理想論だったと言える。だが、あのときの俺には、それがひどく眩しく聞こえた。
なぜなら、あの方は、それを本当に「なす」つもりで言っていたからだ。口先だけの理想ではない。あの方は、その日から誰よりも学び、誰よりも早く起き、誰よりも遅くまで机に向かった。遊びたい盛りの年齢だというのに、自分をとことん律していた。
俺はその姿を、幼いなりに、そばでずっと見てきた。
「セタル、お前はどう思う」
エイエル殿下は、俺にもよく意見を求めた。俺の父が実務を預かる家柄だったからか、それとも単に、あの方が誰の意見にも耳を貸す性質だったからか、今となっては分からない。ただ、俺は聞かれるたびに、自分なりに考えて答えた。理想を語るあの方の隣で、それをどう現実の形にするか――それが、いつからか、俺の役目になっていった。
ある日、俺はあの方にこう尋ねたことがある。
「殿下は、いずれ王になられます。私のような臣下は、いくらでもおります。なぜ、私にばかりそのようなことをお聞きになるのですか」
エイエル殿下は、少し驚いたような顔をして、それから静かに笑った。
「セタル。俺が求めているのは、俺に頭を下げる者ではない。俺と同じ景色を見て、同じ国を作りたいと思ってくれる者だ」
「……それは」
「お前は、そうだろう?」
俺は、その問いに、すぐには答えられなかった。答えられなかったが――その夜、俺は一人、自室で考え、そして決めた。
この方と、共に理想の国を作りたい。
それは、ただの主従の誓いではなかった。俺自身の、心からの意志だった。父の跡を継ぐからでも、家柄のためでもない。俺は、俺自身の意思で、あの方に生涯の忠誠を捧げると決めた。
その誓いは、あの方が世を去り、時と世界を隔てた後も――姿を変えたまま、今もなお、俺の中に残っている。
◇
帰りの電車の窓に、自分の顔が薄く映っていた。
現世の俺には、もう仕える王もいない。忠誠を誓う相手も、守るべき国もない。あの誓いは、行き場を失ったまま、ずっと俺の中だけで眠っていたはずだった。
それなのに、今日。
誰よりも忠誠を捧げたあの方の、たった一人の妃が、前世のことなど欠片も知らない顔で、俺の後輩として現れた。
――現世は、前世とは無縁のはずだった。
そのはずの二つの人生が、こんな形で繋がってしまうとは、俺は今日まで、一度も考えたことがなかった。
胸の奥で、何かがまだ、小さくざわめいている。
それが何と呼ぶべき感情なのか、俺自身にも、まだ分からなかった。




