第10話|動揺
宮之原先生の発表は、無事に終わった。
質疑応答の間、先生は終始涼しい顔をしていたが、壇上を降りてくるなり「いやあ、緊張した」と、らしくもないことを漏らしていた。それぞれ聞きたかったシンポジウムやポスター発表も一通り回り終える頃には、会場の窓の外が、もう夕方の色に染まり始めていた。
学会の一角には、協賛企業やイベント団体のブースがずらりと並んでいて、その端に、古代衣装の試着コーナーがあった。旅行会社の販促だろうか、係の人が、通りかかる人々に愛想よく声をかけている。
「わ! 楽しそう!」
織本さんは、迷う素振りも見せずに、そこへ吸い寄せられていった。頭に巻く薄布、たっぷりとした裾の長い衣。係の人に手伝われながら、彼女は手際よくそれを身にまとっていく。
――その瞬間、俺は、うまく言葉が出なかった。
服の意匠そのものは、あの国のものとは似ても似つかない。それでも、布の垂れ方や、纏う所作のどこかに、記憶の奥に眠るマアカ様の姿が、一瞬だけ重なって見えた。
「要さん、どうですか、似合ってます?」
彼女が、無邪気にくるりと回ってみせる。
「……ああ。悪くない」
それだけ答えるのに、随分と間が空いてしまった気がした。
「ほら、要さんも」
彼女が、笑いながら、別の布地を俺に押し付けようとする。その拍子に、指先が触れた。
至近距離で、マアカ様を彷彿とさせる衣装をまとった彼女と、目が合う。
心臓が、ざらりと嫌な音を立てた。
「ちょ……――っ!」
考えるより先に、体が動いていた。彼女の手を、思い切り振りのけていた。
「え」
彼女が、目を丸くする。手を払われた本人よりも、払った俺の方が、動揺していたと思う。
「……俺は、いいから」
目をそらしたまま、それだけ言うのがやっとだった。
「……嫌でした? すみません」
彼女が、しゅんと肩を落とす。その声の小ささが、余計に胸を締め付けた。
――織本さんは、織本さんだ。マアカ様じゃない。
なのに――マアカ様なんだ。
頭の中が、収拾のつかないまま、ぐちゃぐちゃに絡み合っていた。ようやく自覚したばかりの気持ちを、ぎりぎりの言い訳で誤魔化しながら抱えていたはずなのに、こんな些細な瞬間に、あっさりとその均衡を崩されてしまう。
俺は、それ以上何も言えないまま、その場に立ち尽くしていた。
しばらくして、衣装を脱いで元の服に戻った織本さんが、控えめに顔を覗かせた。
「要さん? 疲れちゃいました? 飲み物でも買いに行きましょうか」
さっきのことなど、もう気にも留めていないような、いつも通りの気遣いだった。それが、かえってこたえた。
――これ以上、俺の心を揺さぶらないでくれ。
耳の付け根が、じんわりと熱を持っている。心臓は、まだうるさいくらいに速い。困った、としか言いようがなかった。
◇
その夜、宿泊先の中庭で、俺たちは夕食を終えたあとの時間を持て余していた。
街の灯りから少し離れたその場所は、驚くほど星が近かった。
「うわあ……」
織本さんが、椅子に腰掛けたまま空を見上げ、小さく声を漏らす。
「日本じゃ、こんなに見えないですよね」
「都会だとまず無理だな」
彼女は、しばらく黙って星を見上げていた。乾いた夜風が、時折、思い出したように吹き抜けていく。木々の葉が、さらさらと乾いた音を立てた。
「なんか、不思議な感じです」
「何が」
「知らない国で、知らない星空見てるのに、変によそよそしくないっていうか。ここにいてもいい気がするっていうか」
彼女は、そう言って、少し照れたように笑った。
その横顔に、俺は、また目を奪われた。
だからこそ、恐ろしかった。マアカ様の面影に紛れて済ませられるうちは、まだ言い訳ができた。だが、こんなにもはっきりと、彼女自身に心を奪われているのだと分かってしまえば――もう、誰のせいにもできない。
そしてそれ以上に――どうしようもなく、愛おしかった。
「要さんも、たまには何も考えずに、星でも見てたらどうですか」
彼女が、こちらを振り返って笑う。
その、屈託のない笑い方に、俺は、しばらく声を失っていた。
この先、この笑顔を、俺はどんな顔をして、見つめ続けることになるのだろう。
まだ、答えは出ないままだった。




