第11話|蓋
帰国してから、一週間が経った。
現地での日々は、まるで夢か何かのように、少しずつ輪郭を失い始めていた。それでも、あの乾いた風の記憶だけは、なぜか今も、肌の奥に張り付いたまま消えずにいる。
研究室は、いつも通りだった。宮之原先生は相変わらず論文に埋もれ、橘さんは相変わらず騒がしく、このみは相変わらず、俺たちをからかっては笑っている。
その日は、あちらに行っている間に溜まった作業を片付けなければならず、資料の束と睨めっこをしていた。集中していたせいで、しばらく周りの気配に気づいていなかった。
ふと顔を上げると、織本さんが、少し離れた席から、こちらをじっと見ていた。
「……何か用か」
声をかけると、彼女は、我に返ったように瞬きをした。
「あ、いえ、別に」
そう言って、慌てたように視線を逸らし、手元のノートに向き直る。
だが、その一瞬――目が合う直前の、彼女の表情を、俺は見てしまった。
柔らかく緩んだ目元。何かを慈しむような、静かな眼差し。誰かに見られていると気づく前の、無防備な顔。
――それは、俺には覚えのある表情だった。
◇
あの表情を、俺は前世で、一度だけ見たことがある。
執務室に書類を届けに行った、なんでもない日のことだった。扉の陰から、マアカ様が、陛下の執務する背中を見つめているのが見えた。
陛下は、こちらに気づいていなかった。マアカ様も、俺がそこにいることに気づいていなかった。
その一瞬だけ、マアカ様は、誰に見せるためでもない顔をしていた。
柔らかく緩んだ目元。慈しむような、静かな眼差し。
――それは、王妃としての顔でも、俺の知るマアカ様の、いつもの快活な顔でもなかった。ただ一人の女性が、愛する人を見つめる時だけに浮かべる顔だった。
俺は、その場をそっと離れた。見てはいけないものを見た、という気がしたからだ。
あの顔は、陛下だけのものだった。俺には、生涯、向けられることのない顔だと、当然のように思っていた。
◇
俺は、しばらく声も出せないまま、ただ彼女を見つめていた。
「な、なんですか」
彼女は、明らかに動揺していた。頬が、うっすらと赤い。
俺は、それ以上、何も聞けなかった。
さっき見た表情が、頭から離れなかった。あれは、俺に向けられていた顔だ。見間違いでも、都合のいい解釈でもない。
あの、誰にも見せるはずのなかった顔を――彼女は今、俺に向けていた。
心臓が、痛いくらいに音を立てている。
嬉しい、と思う自分がいた。それと同時に、ぞっとするほどの恐ろしさもあった。
あの顔は、陛下だけが受け取っていいはずのものだった。それを、自分が引き出してしまったという事実が、抜き差しならない罪のように、のしかかってくる。
「悪い、ちょっと外す」
俺は、資料も片付けないまま、席を立った。
「え、要さん?」
彼女の戸惑った声を背中に聞きながら、俺は、逃げるように研究室を出た。
廊下の窓から差し込む光が、やけに眩しかった。
――どうすればいい。
自分に問いかけても、答えは出なかった。ただ、あの顔をこれ以上見てはいけない、という思いだけが、頭の中を占めていた。
◇
俺は、非常階段の踊り場まで来て、ようやく足を止めた。
好きだ、と思う。瀬戸要として、織本麻朱のことが。
それは紛れもなく本物で、偽りのない感情だった。突き上げてくるような衝動の強さでいえば、これまで生きてきた中で、間違いなく一番だと言えるくらいに。
けれど――それは、まだ、たったこの数ヶ月で芽生えたばかりの、若い感情でしかなかった。
一方で、俺の中には、もっと深いところに、もっと長い年月をかけて根を張った感情が、揺るぎなく鎮座している。前世でセタルとして生きた、幾十年分もの記憶。そして、生まれてから今日までの二十四年間、その記憶と共に生きてきた時間。湧き立ったばかりの恋心なんてものが、それを凌駕できるはずもなかった。いや、して良いはずがなかった。
瞼の裏に、あの光景が蘇る。
エイエル陛下は、俺のことを誰よりも深く信頼してくださった。俺もまた、あの方を心からお支えしたいと願い、生涯の忠誠を誓った。あの尊い関係を、俺はずっと誇りに思って生きてきた。
そして、誰よりも深く愛し合っていた、陛下とマアカ様。お二人の間に生まれた王子様や王女様たちが、暖かい陽だまりの中で笑っている光景。それを間近で見守ることこそが、俺にとって、何よりの幸せだった。
――これは、裏切りだ。
そう思い至った瞬間、体の芯が、すっと冷えるのが分かった。
エイエル陛下に対する裏切りだ。そして、前世のことなど何一つ覚えないまま、織本麻朱として今を生きている、マアカ様に対する裏切りでもある。
この感情は、決して抱いていいものではない。この関係を、これ以上進めることなど、あってはならない。
今なら、まだ間に合う。まだ、引き返せる。まだ、この浅い感情に、自分の手で蓋をすることができる。
――ずっと、疑問だった。
なぜ、俺には、こんな面倒な前世の記憶なんてものがあるのか。生まれた時からずっと、その理由が分からなかった。
だが、もしかしたら――これは、神からの忠告だったのかもしれない。
いつか訪れるかもしれない、この瞬間のために。決して、その一線を越えるな、という。
俺は、踊り場の冷たい手すりに、額を押し付けた。
このまま、少しずつでいい。距離を取ろう。
そう、自分に言い聞かせた。




