第12話|作戦会議
要さんの様子がおかしくなったのは、帰国して少し経った頃からだった。
最初は、気のせいだと思おうとした。
鍵を返しに行く時も、なんとなく素っ気ない。自販機の前で、いつものように「今日はどれにしましょうか」と聞いても、「なんでもいい」とだけ返ってくる。前は、私がふざけたことを言うと、ちゃんと拾って茶化してくれていたのに、最近は、そのやり取りすら、どこか上の空だった。
「要さん、最近、話しかけても目、合わせてくれないんですよね」
昼休み、このみさんと学食で向かい合いながら、私はつい愚痴をこぼした。
「あー、確かに。心ここにあらずって感じだよな、最近」
橘さんも、トレイを片手に隣に座りながら、うんうんと頷いた。
「なんかしたのか、麻朱」
「してないですよ! 私だって、何が悪かったのか分からなくて」
「喧嘩したわけでもないんだろ?」
「してません……多分」
心当たりが、まったくないわけではなかった。学会での最終日、あの衣装体験コーナーで、要さんに手を振りのけられたことがあった。あの時から、少しだけ、様子がおかしい気もする。
でも、あれくらいのことで、こんなに距離を置かれる理由になるだろうか。
「素直に聞いてみればいいじゃん、どうしたんですかって」
このみさんが、あっさりと言う。
「それができたら苦労しないですよ……」
「なんでだよ、いつもの麻朱なら、ずけずけ突っ込みそうなのに」
橘さんの言う通りだった。いつもの私なら、こんなに悩まず、直接聞きに行っているはずだ。
――それができないのは、多分。
「……好きなんです、要さんのこと」
口をついて出た言葉に、自分でも驚いた。
このみさんと橘さんが、同時に箸を止める。
「うわ、ついに言った」
「知ってた!」
二人の反応に、私は思わず赤面した。
「知ってたって、なんですか! 隠してたのに!」
「いや、隠せてなかったから」
橘さんが、笑いながらそう言った。
「じゃ、今日終わったら作戦会議ね」
「作戦会議?」
「麻朱の恋愛相談。付き合うよ、私」
このみさんが、にんまりと笑った。
◇
その夜、私たちは大学近くの小さな居酒屋で、テーブルを囲んでいた。
「で、結論から言うけどさ」
橘さんが、ジョッキ片手に切り出した。
「要も、麻朱のこと好きだろ。明らかに脈ありだぞ、あれは」
「え」
「私もそう思う」
このみさんが、深く頷きながら続けた。
「私もさ、去年配属されたばっかりの頃から、一年間ずっと要さんに世話焼いてもらってきたけど。確かに面倒見はいいの。誰にでも。でも、麻朱といる時だけ、なんか、明らかに楽しそうなんだよね。全然違う」
「そう、なんですか?」
「そうだよ。だから私、実は結構前から、二人のことニヤニヤしながら見てた」
「え、いつから!?」
「わりと最初の方から」
そう言われても、正直、実感が湧かなかった。
「でも……」私は、ぽつりと呟いた。「このみさんのこと、このみって呼んでるのに、私のことはずっと織本さんのままだし……なんか、遠いんですよね」
「いや、それ」
橘さんが、真顔でこちらを見た。
「脈ありだからこそ、意識しすぎて逆に呼べない類のやつだろ」
「そうそう」
「そう、なんですかね……」
「絶対そう。俺、そういうやつ何人も見てきた」
このみさんが、身を乗り出してきた。
「ねえねえ、それより、海外どうだったの? なんかなかったの?」
「なんかって?」
「なんかだよ、なんか」
このみさんの目が、やけにきらきらしている。
「え……普通に、学会行って、博物館回って、遺跡回っただけですけど」
「色気ねえな」
橘さんが、思い切り脱力した声を出した。
「なんですか、それ!」
「もっとこう、あるだろ。二人きりで星空見たとか」
「……あ」
思わず、声が漏れた。
「あるんじゃん!」
「な、なんでもないです!」
顔が熱くなるのを感じながら、私は誤魔化すように、グラスの中身を一気に呷った。
「まあ、とにかく」
橘さんが、笑いながら締めくくった。
「うだうだ悩んでるくらいなら、ぶつかってこいよ。麻朱らしくもない」
「……そう、ですかね」
「そうだよ」
このみさんが、優しく微笑んだ。
「言わなきゃ、始まらないよ」
◇
その夜、自分の部屋に戻ってからも、二人の言葉が、頭の中でずっと反響していた。
言葉にして誰かに話したせいだろうか。ずっと胸の奥に押し込めていたはずの気持ちが、抑えが利かないくらい、膨れ上がっていくのが分かった。
――好き。
好きです、要さん。
声に出したわけでもないのに、その言葉だけが、頭の中を何度も駆け巡る。
こんな気持ちは、初めてだった。浮き立つように嬉しいのに、同時に、どうしようもなく切ない。整理しきれない感情が、胸の中で渦を巻いて、行き場を失っている。
気づけば、目の縁に涙が滲んでいた。
好きという気持ちだけで、こんなにも泣きたくなるなんて、知らなかった。
二人が言うように、もし、本当に脈ありなんだとしたら。
この気持ちを伝えたら、何か変わるだろうか。
――今度、チャンスがあったら。
そう思いながら、私は、涙の跡が残る頬を、ぐいと拭った。
◇
数日後の夕方、研究室に残っていたのは、要さんと私の二人だけだった。
いつものように、パソコンを閉じる。荷物をまとめる。だけど今日は、いつもの日課に誘う勇気が出なかった。
「……あの、要さん」
「なんだ」
振り返った要さんの顔は、いつも通り、涼しげだった。それが、今はやけに遠く感じた。
「最近、なんか、避けられてる気がして」
「……そんなことない」
「じゃあ、なんで目、合わせてくれないんですか」
要さんは、答えなかった。ただ、その沈黙は、興味がないからの無視とは、どこか違う気がした。むしろ、何かをこらえているような、そんな沈黙だった。
心臓が、痛いくらいに鳴っている。
もう、後には引けない気がした。
「私、要さんのこと、好きです」
言ってしまった。
要さんは、目を見開いたまま、動かなかった。
「……付き合ってください」
長い、長い沈黙が流れた。
要さんは、何かを言おうとして、口を開きかけては、また閉じた。苦しそうな顔をしていた。まるで、答えたくないのではなく、答えられない何かを、必死に抱えているような。
「……少し、考えさせてくれ」
ようやく絞り出されたのは、そんな一言だった。
「……はい」
私は、それだけ答えて、逃げるように研究室を出た。
外の空気は、もう夜の匂いがした。
断られたわけじゃない。それなのに、胸の中は、これまで感じたことのない痛みでいっぱいだった。




