第13話|衝動
「少し、考えさせてくれ」
そう言ったきり、俺は、あの日から何日も、答えを出せずにいた。
情けない話だと思う。だが、答えなど、最初から分かりきっていたはずだった。この気持ちに応えてはいけない。応えることは、エイエル陛下への裏切りであり、前世を何一つ知らないマアカ様への、静かな裏切りでもある。
それなのに、俺は「少し」という言葉に逃げ込んだまま、彼女に何も告げられずにいた。
◇
彼女の方が、先に動いた。
自販機の前で「今日はどれにしましょうか」と聞いてくることは、もうなくなっていた。鍵を返しに行く時も、当たり前のように隣を歩いていたはずなのに、気づけば、少し距離を空けて歩くようになっている。
「これ、分からないので教えてください」と、無邪気に文献を持ってくることもなくなった。何かあれば、俺ではなく、このみに聞いているらしい。
そのうちに、だんだんと、研究室に最後まで残ることも、なくなっていった。前は、当たり前のように二人きりになる時間があったのに、彼女は、他に誰かが残っている日にしか、長居をしなくなった。まるで、二人きりになることそのものを、避けているようだった。
――これで、いいんだ。
俺は、そう自分に言い聞かせた。
彼女が距離を置いてくれるなら、この気持ちに蓋をするのも、きっと今より楽になる。誰も傷つかず、誰への裏切りにもならず、この感情は、静かに萎れて消えていくはずだ。
そのはずだった。
◇
だが、日を追うごとに、俺は、自分で思っていたよりずっと、この状況に耐えられなくなっていった。
研究室に彼女が来ても、目が合わない。目が合わないよう、避けているのは、俺の方でもあった。それなのに、彼女の姿が視界の端をよぎるたびに、意識せずにはいられなかった。
前は、うるさいくらいに話しかけてきていたはずだった。「要さん、これ見てください」「要さん、聞いてます?」――その声が、今はもう、ほとんど聞こえてこない。
静かになった研究室は、以前よりずっと、居心地が悪かった。
コンビニに寄っても、いつも二人で選んでいたはずの飲み物を、今は一人で選ぶ。何を選んでも、味がしなかった。
――これで、いいはずだ。
何度も、そう繰り返した。だが、繰り返すたびに、その言葉は、俺自身を納得させる力を失っていくようだった。
彼女が離れていくということが、これほどまでに、堪えるものだとは、思っていなかった。
気づけば、あれほど頻繁に立ち返っていたはずの前世の記憶さえ、近頃は影を潜めていた。代わりに浮かぶのは、彼女と過ごした、ここ数ヶ月の記憶ばかりだった。自販機の前でのくだらない言い合い、居眠りしていた横顔、外国で見上げた星空。蓋をしようとすればするほど、かえって、彼女への意識だけが強くなっていく。
頭では、正しい選択をしているはずだった。それなのに、心のどこかが、これは違う、と叫び続けている。
――このままで、本当にいいのか。
夜、一人になるたびに、その問いが、繰り返し浮かんでは消えた。
◇
それから、数週間が過ぎた。
あれ以来、彼女が研究室に最後まで残ることは、一度もなかった。俺は、それを当然の結末だと自分に言い聞かせ続けていたが、日を追うごとに、その言い聞かせは、擦り切れていく一方だった。
その日は、一日中、妙に落ち着かなかった。理由は、自分でも分かっていた。昼休み、たまたま通りかかった中庭で、彼女が誰かと楽しそうに笑い合っているのを見かけたからだ。以前なら、当たり前に俺に向けられていたはずの、あの何気ない笑顔だった。
――別に、俺に向けられる理由なんて、もうどこにもないのに。
分かっているはずのことが、その日に限って、やけに重く胸にのしかかった。夕方になっても、その重さは消えないままだった。
宮之原先生も、橘さんも、このみも、いつの間にか帰っていた。気づけば、研究室に残っているのは、俺と彼女だけだった。何ヶ月も、当たり前のように繰り返してきたはずの状況が、今は、ひどく久しぶりに感じられた。
会話らしい会話もないまま、俺たちは、いつもの手順で戸締まりを済ませた。並んで歩くというより、少し距離を空けて、それぞれ別々に歩いているような帰り道だった。
いつもの自販機の前に差し掛かった時、どちらからともなく、足が止まった。
その沈黙が、何かを物語っているようで、俺は、何も言えなかった。
「……お、お先に失礼します」
彼女が、ぎこちない声でそう言って、俺の横をすり抜けようとする。
――このまま行かせたら、二度と、こんなふうに隣を歩くことすらなくなる。
その予感が、頭の中を焼くように過ぎった瞬間、理性より先に、体が動いていた。
――気づけば、彼女の手首を、離すまいとするように、掴んでいた。




