第14話|決壊
手のひらに、彼女の手首の感触が、確かにあった。
――何をしている、俺は。
自分の行動に、自分が一番驚いていた。誰かの手を、自分の意志で掴んだことなど、これまで一度もなかった。マアカ様に対してはもちろんのこと、他の誰に対しても、そんなふうに人に触れることは、生涯を通じて、俺の中では起こり得ないことだったはずだ。
それなのに、今、俺は、彼女の手首を離せずにいる。
彼女が、ゆっくりと振り返った。
その顔を見て、俺は言葉を失った。
頬は、燃えるように赤く染まっている。だが、それだけではなかった。困惑と、戸惑いと、それから――今にも泣き出しそうな、寂しさのようなものが、ぐちゃぐちゃに入り混じった顔をしていた。
その表情を見た瞬間、俺の中で、何かが決壊した。
理屈は、もう追いつかなかった。エイエル陛下への裏切りだとか、マアカ様への裏切りだとか、これまで自分に言い聞かせてきた、あらゆる正しさが、音を立てて崩れていくのが分かった。
「……か、要さ……」
彼女が、掠れた声で、俺の名前を呼んだ。
俺は、彼女の手首を握ったまま、しばらく何も言えずにいた。何か言わなければと思うのに、喉の奥で言葉が絡まって、うまく出てこない。
「悪い。……じゃなくて。いや、その」
「……はい?」
彼女が、戸惑ったように瞬きをする。
「――ごめん。返事も、まともにしないで。ずっと、宙ぶらりんにしたまま……お前のこと、随分、傷つけたと思う」
情けないくらい、声が震えていた。二十四年間、こんなに不様に言葉に詰まったことなど、一度もなかったはずだ。
「それでも――」
俺は、彼女の手首を握る手に、少しだけ力を込めた。
「離したくない、と思った。今更、虫のいい話だってことは、分かってる」
もっと気の利いた言い方があればいいと思うのに、それ以上、何も出てこなかった。自分の不甲斐なさが、情けなかった。
彼女の目に、みるみるうちに涙が盛り上がっていく。
「……それ、答えってことですか」
「ああ」
「ちゃんと、言ってください」
その声は、震えていたが、確かな強さも持っていた。
俺は、深く息を吸った。もう、後戻りはできない。それだけは、はっきりと分かっていた。
「好きだ。……付き合ってほしい」
彼女は、しばらく、声も出せずにいた。それから、堪えきれなくなったように、涙をこぼしながら、くしゃりと笑った。
「……はい」
その一言だけで、俺の中の何かが、ようやく緩んだ気がした。
安堵に緩みかけたその瞬間、指先に、まだ力が残っていることに気づいた。――彼女の手首を、俺は、まだ握ったままだった。
「……あ」
我に返って、慌てて手を離す。血の巡りを妨げていたのではないかと、今更ながら不安になった。
「……悪い、突然掴んだりして。痛くなかったか」
彼女は、離されたばかりの自分の手首を、もう片方の手でそっと撫でた。それから、小さく首を振る。
「悪くなんて、ないです」
声は、まだ涙の名残で掠れていた。それでも、彼女は俯いていた顔をゆっくりと上げると、今度は自分から、俺の両手に、自分の両手を重ねてきた。
指先が触れ、それから手のひら全体が、そっと包み込むように絡む。彼女の手は小さくて、少し冷たくて、けれど確かな熱を持っていた。
「……嬉しい」
囁くような声だった。俯いたまま、はにかんだ笑みだけが、自販機の灯りに滲んで見えた。
たったそれだけの言葉と仕草に、俺の心臓は、これまで経験したことのない強さで締め付けられた。二十四年生きてきて、こんな単純な一言に、これほど揺さぶられたことはなかった。
伝えたいことは、山ほどあるはずだった。それなのに、いざ言葉にしようとすると、どれもうまく形にならない。
繋いだ手の熱を確かめるように、俺は、彼女の手を、少しだけ強く握り直した。
「……悪かった」
「え?」
「お前が、せっかく勇気を出して、伝えてくれたのに。俺は、ろくに返事もしないで……ずるずる、引き延ばした。研究室でも、居づらかっただろ。気づかないふりをして、悪かった」
言いながら、自分でも、この謝罪がどれだけ遅すぎたかを思い知らされていた。彼女が、この数週間をどんな顔で過ごしていたのか――想像するだけで、胸が痛んだ。
彼女は、俺の言葉を聞いているうちに、みるみる顔をくしゃくしゃにした。
「……っ、そんな……」
堪えきれなくなったように、大粒の涙が、次から次へとこぼれ落ちていく。
「べつに、要さんのせいじゃ……私も突然で、困らせちゃいましたから……。それでも、やっぱり、ちょっと、寂しかった、です……声、かけてもらえなくて……目も、なかなか合わなくて……」
途切れ途切れの声が、そのまま、彼女がこらえてきた時間の長さを物語っていた。
これ以上、何も言わせたくなかった。
俺は、繋いだままの手を引いて、彼女を、そっと自分の方へ引き寄せた。彼女の額が、こつんと、胸に触れる。小さく震える肩を、そのまま抱き込むように、腕を回した。
どちらの心臓も、うるさいくらいに音を立てていた。きっと、この距離なら、彼女にも聞こえているだろう。それでも、離す気にはなれなかった。
自販機の灯りが、彼女の濡れた頬を、静かに照らしていた。
その夜、俺たちは、随分と遅くまで、他愛もないことを話しながら、帰り道を歩いた。
これから先、この選択がどんな結末を迎えるのか、まだ何も分からない。
それでも、今この瞬間だけは、ただ単純に、嬉しかった。




