第15話|口実
その日、研究室では、宮之原先生に言い渡された資料の整理に、みんなで取り組んでいた。
「まあかー、そこの資料取ってー」
「はーい」
橘さんが気安く呼ぶと、織本麻朱は振り返りもせずに手だけを伸ばして資料を渡した。このみも、普段からごく自然に「まあか」と呼んでいる。彼女の名前は、この研究室の中で、とうにみんなのものになっていた。
俺以外の、誰のものにも。
「――で、要さんは、いつまで“織本さん”呼びなんですか」
このみが、思い出したように俺の方を向いた。
「付き合ってるのに、まだそれなんですか」
「別に、いいだろ、呼び方くらい」
「よくないですよー。麻朱も下の名前でいいですよって、前から言ってましたよね」
このみの言う通りだった。付き合うずっと前から、織本さん本人が何度も「下の名前で呼んでください」と言ってくれていた。それでも俺は、頑としてそれに応じてこなかった。
「べつに、無理にとは言ってないですけど……」
織本さんが、資料を抱えたまま、少し困ったようにこちらを見た。その顔にこれ以上茶化すのは可哀想だと思ったのか、このみも橘さんも、それ以上は追及してこなかった。話題はすぐに、次の作業へと流れていく。
我ながら、理由の説明がつかない意固地さだと思う。このみのことは、何の抵抗もなく「このみ」と呼べている。橘さんのことも、名前で呼べと言われれば、明日からでもそうするだろう。人の名前を呼ぶこと自体に、抵抗などないはずだった。
それなのに、彼女の名前だけは、口の中で固まって出てこない。
◇
前世でも、似たようなことがあった。
いや――似ている、というのは正確ではない。あの頃の俺にとって、それは選択の余地すらない、当然の一線だった。
まだ、ただの一貴族の令嬢でいらした頃は、俺も「マアカ様」とお呼びしていた。エイエル殿下の想い人として宮廷に顔を出されるようになってからも、しばらくはそうだった。
だが、婚約が調い、「妃殿下」とお呼びする身分になったあの日、俺は一度だけ、意識してその名を口にした。
「――マアカ様。どうか、これからも殿下をお支えください」
それが、最後だった。それ以来、俺は二度と、本人に向かってその名を口にしなかった。「妃殿下」、そして即位されてからは「王妃陛下」「王妃様」。それだけを、生涯貫いた。
エイエル陛下に対しても、同じだった。幼い頃、まだ王子でいらした頃から「殿下」と。即位されてからは、ただ「陛下」とのみ。「エイエル様」と、面と向かって名前でお呼びしたことは、生涯を通じて一度もない。
古参の臣下の中には、かつてまだ若い王子でいらした頃、「エイエル様」と親しく名前で呼んでいた者もいた。だが、即位という一線を越えてからは、彼らでさえ、その呼び方を封じた。国王陛下、陛下、王妃陛下、王妃様――誰もが、そう呼ぶようになった。
それでも、お二人だけは違った。即位されてからも、二人きりの時、あるいはごく親しい者しかいない場で、互いをただ「エイエル」「マアカ」と呼び合っていた。
「マアカ、少し休め。根を詰めすぎだ」
「エイエルこそ、休んだらどうなの?」
そんなやり取りを、俺は幾度となく目にしてきた。あるとき、そのやり取りを見ていた俺に、王妃様が悪戯っぽく仰ったことがある。
「セタルも、昔のように名前で呼んでくれていいのに」
「……畏れながら、それはご遠慮申し上げます」
俺がそう答えると、王妃様は仕方なさそうに、けれどどこか楽しそうに笑っていらした。それ以上、強いて求められることはなかった。
あの名を呼ぶ資格は、この世でただ一人、陛下にしかない。俺自身がその一線を越えようと考えたことは、最後まで一度もなかった。それは忠誠の形であり、同時に、陛下とマアカ様、二人だけの領分を守るための、俺なりの礼儀でもあった。
◇
その日の作業を終える頃には、研究室に残っていたのは、俺と織本さんの二人だけになっていた。このみたちは、とうに帰っている。
彼女は、仕分け終えた資料を、一冊ずつ棚に戻していた。その背中を見ているうちに、さっきのやり取りが、また頭の中で蒸し返される。
苗字で呼ぶ癖が抜けないとか、今さら気恥ずかしいとか、そんな単純な話ではなかった。
麻朱、という響きは、あの名前と、あまりに似すぎている。そしてあの名前は、俺にとって、誰かが軽々しく口にしていいものではなかった。生涯そう思い込んで生きてきた響きを、今さら自分の口で――しかも、恋人として――呼ぶことに、俺はまだ、指一本触れられずにいた。
「……麻朱、さん」
小さく、声に出してみる。
言った瞬間、心臓が跳ねた。まるで、越えてはいけない一線を、今初めて跨いだような感覚だった。
――「さん」をつければ、いい。
言った直後、頭の隅で、そんな考えがよぎった。マアカ様に、さんもちゃんも付けて呼ぶ人間など、あの世にはいなかった。付けようがなかった。言語からして違う。だから、その二文字を後ろにくっつけるだけで、これは王妃ではない、麻朱なんだと、自分の中で無理やり線を引き直せる気がした。都合のいい言い訳だと、自分でも分かっていた。それでも、今の俺には、その言い訳が必要だった。
振り返った麻朱が、資料を抱えたまま、目を丸くして俺を見た。
「……え、今、初めて呼んでくれました?」
その声は、驚きよりも先に、隠しきれない嬉しさが滲んでいた。目元がじんわりと緩んで、口元がふにゃりと崩れていく。
「……うるさい。今日はもう言わない」
「え、待って、もう一回言ってください」
「言わない」
そう言いながらも、頬が緩みそうになるのを堪えるので精一杯だった。麻朱は、資料を胸に抱えたまま、誰に見せるでもない、俺だけに向けられた顔で、ただ嬉しそうに笑っていた。
――こんな顔をされるのなら。
たった一言、名前を呼ぶだけで、この笑顔が見られるのなら。それを知ってしまった以上、もう後戻りはできない気がした。前世からの一線を、これほど簡単にぼかせてしまう自分に、我ながら呆れる。それでも、悪くないと思った。




