第16話|夢
俺の部屋で麻朱と夕食を摂るのが、いつの間にか週末の習慣になっていた。今夜も、テーブルに並べた出来合いの惣菜を挟んで、他愛もない話をしていた。
「今日、宮之原先生に、中間発表のテーマの絞り方について相談したら、"そういうのは瀬戸くんに聞いた方が早いよ"って丸投げされたんですよ。結局、先生に聞いた意味がなかったっていう」
「昔からそうだよ。今更驚くな」
「要さんも否定しないんですね」
「否定する要素がない」
麻朱が、くしゃっと笑う。皿を片付けた後も、麻朱はソファに座ってノートパソコンを開き、別の講義の課題レポートに手をつけ始めた。
「麻あ……」
「はい?」
「……いや」
言いかけて、やめる。まだ、その一文字すら、うまく言い切れない。麻朱は、それ以上追及せず、ただ嬉しそうに肩をぶつけてきた。
「週末ぐらい、根詰めすぎず休んだら」
「要さんに言われたくないんですけど」
麻朱が、じとっとした目で、俺の手元の資料を指差す。何も言い返せなかった。
その遣り取りに、既視感のようなものがよぎった。
◇
前世にも、似たような夜があった。
エイエル陛下が他国の使者との会談のため、王宮を数日空けていた時期がある。その間の政務を代行するよう任されていた俺は、連日、深夜まで書類に目を通していた。自分の執務を終えて自室へ戻る道すがら、俺はいつも、マアカ様の執務室の前を通った。彼女もまた、灯りを絶やさず、夜遅くまで羊皮紙に向かっていたからだ。
ある晩、いつもより遅くまで灯りが消えないのを見かねて、俺は珍しく戸口から声をかけた。
「――夜も更けております。そろそろお休みください」
「あら。セタルにそう言われる日が来るとはね」
マアカ様は、筆を置かないまま、そう返された。
「陛下がいらっしゃらない間くらい、誰かが目を光らせておかないと、王妃陛下はすぐ根を詰められすぎますので」
「セタルにだけは、言われたくないのだけれど」
その声には、咎める響きはなかった。むしろ、どこか楽しげでさえあった。俺はそれ以上何も言わず、一礼して、自室へと戻った。
結局、マアカ様がその夜、筆を置かれたのがいつだったのか、俺は知らない。何の変哲もない、記録にも残らない夜だった。それなのに、なぜか今も、あの灯りの色だけは、はっきりと思い出せる。
◇
「――ねえ、要さん」
麻朱が、ノートパソコンの画面から目を離さないまま、ふと呟いた。
「前にもこんな会話したことあったっけ?」
指先が、一瞬止まった。
何気ない問いのはずだった。だが、頭の中で再生していた記憶――灯りの下で交わした、あの一言一句――が、そのまま今の遣り取りに重なって聞こえてしまって、俺は返す言葉を一拍分、失った。
根を詰めすぎだと窘め、窘め返される。それだけの、ありふれたやり取りだ。まさか彼女が、俺の中の記憶そのものを覗き見たわけがない。分かっているのに、心臓は勝手に、大きく一つ跳ねた。
「……いや、どうだったか」
なるべく平坦な声を心がけたつもりだったが、うまくいった自信はなかった。
麻朱は、特に気にした様子もなく、画面に視線を戻す。
「そっか。じゃあ、ただのデジャヴかな。それとも、夢で見たのかも」
「……夢?」
聞き返す声が、我ながら硬くなる。
「そう。最近、変な夢見るんだよね」
麻朱は、ノートパソコンを閉じ、ソファの背もたれに体重を預けた。半分眠りかけているような、力の抜けた声だった。
「なんか、古代の世界に暮らしてるみたいな夢。乾いてて、日差しが強くて。石造りの街で、普通に生活してる感じ」
指先で、宙に何か描くような仕草をする。
「こないだ現地で見た、遺跡とか博物館の影響、受けすぎですよね、私」
麻朱は、自分の想像力を茶化すように、くすりと笑った。俺は、何か相槌を打とうとしたが、うまく言葉にならなかった。喉の奥に、小さな塊が引っかかっているような感覚があった。
「昨日なんてね」
麻朱が続ける。
「夢の中なのに、机に向かって書き物してたの、私。研究室でもあるまいし」
くすくすと笑いながら、麻朱は続けた。
「課題レポートやらなきゃって焦りが、そのまま夢に出てるんですかね、これ」
「……何に、書いてたんだ」
声が、思ったより低く出た。
「それが、羊皮紙にインクで、なんだよね。灯りも、蝋燭の火っぽくて」
麻朱は、目を閉じたまま、その情景を確かめるように、少し間を置いた。
「なんでだろ。全然知らない景色のはずなのに、なぜか、ちょっと懐かしい感じがしたんだよね」
その一言に、心臓を、鈍い重さで殴られたような気がした。
「……その夢に、誰か出てくるのか」
できる限り、何でもないことのように聞いたつもりだった。だが、自分の声が、いつもより硬いことに、自分自身が一番気づいていた。
「どうだっけ」
麻朱は、そう言ったきり、しばらく黙った。眠気に呑まれかけているのか、それとも、本当に思い出せないだけなのか、俺には判断がつかなかった。
「目が覚めたら、大体忘れちゃうんだよね、夢って」
そう言って、あくびを一つ漏らすと、麻朱は、そのまま俺の肩に頭を預けてきた。規則正しい寝息が、それから数分もしないうちに聞こえ始める。
思い出した様子は、どこにもなかった。ただの、荒唐無稽な夢だと、本人も思っている。
それを確かめて、俺は詰めていた息を、そっと吐いた。安堵と呼ぶには、後ろめたさが勝りすぎていた。
眠る麻朱の横顔を見ながら、俺はふと思う。
あの夜、灯りの傍らに立つことしかできなかった俺と、今、隣にいる彼女に何も言えずにいる俺と――距離は、随分縮まったはずだった。それなのに、伝えられずにいることの数は、少しも変わっていない気がした。




